購買課には、大卒は、経済学部、高卒は、商業系の人たちばかりで
工学部や工業高校卒の課員はいませんでした。
当時の課長の言葉によると、「技術の日立製作所なのに機械や技術に
強い課員が居ないのは問題だ。そこで君を採用した。」と言う事で、
毎日張り切って仕事をしていました。
JIS規格やISO規格を覚え、メーカの技術者に色々とお教えて貰ったり、
取引先の工場見学も頻繁に行きました。
素材の知識を増やす為、鉄鋼品や非鉄金属を発注していましたが、
新金属のチタンも買っていました。軽くて強く耐食性に優れた
この金属は、化学プラントの熱交換器等に使われていました。
只、高価な為、無垢でタンクを作れない為、ダイナマイトを使い
爆発させて他の金属と張り合わせる工法や真空溶接などあり
新金属に対する知識と技術の理解力が必要で、
オレが正に適任者でした。
宇宙開発でロケットなどに使われていた貴重で高価な新金属の
チタンが、今の様にゴルフのドライバーに使われたり、
眼鏡のフレームになるなんて夢にも思っていませんでした。
あっと言う間に1年が過ぎ、2年目を向かえた時に将来を考える事件に
遭遇しました。この事件により、3年間勤めた日立製作所を退社し
21歳で米国に渡米する事になり、
さらにその後、SINGAPOREに来るきっかけにもなるとは、
チタンと同様、夢にも思いませんでした。
ところで、科学記号で鉄はFe、アルミはAl、と記載しますが、
チタンはどう表記する?
日立製作所を退社した理由は、3つ有ります。
1)学歴
今でこそ何処の会社も実力主義、成果配分などと言っていますが、
30年以上の前は、終身雇用、学歴主義の世界でした。
まだ若かったオレは、工業高校しか卒業していなくても将来、
天下の日立製作所の社長にはなれないかもしれないが、取締役程度は
絶対行ける!と思っていました。オレの夢を先輩達に話すと
笑い飛ばされてしまいました。
彼ら曰く、取締役どころか、大卒の“おもり”をした後、
10年もしないうちに子会社、孫会社に転属されそれでお終い。。。。
確かに周りを見廻すとそのとおりだし、先輩達と飲みに行くと
会社の愚痴と上司の悪口を延々と赤提灯の下で話している姿しか
見えませんでした。
2)派閥
それなら労働組合の幹部、書記長や組合委員長になれば、
社長と対等に話が出来る!と思い、組合活動に力を入れていました。
青婦協のトップまで行き、全国弁論大会にも中部代表として参加し、
皆から優勝や!と言われるぐらい、内容も態度もピカイチでした。
がしかし、優勝したのは、労働組合のお膝元、日立工場の人間。
そこで労働組合にも派閥があることを知りました。
組合委員長に就任、その後、電気労連の委員長、更に社会党から
出馬して国会議員へ!という夢はあっさりと消え去りました。
3)会社というブランド
ある取引先での出来事。。。
この取引先に対しては、クレームがかさみオレの父親みたいな
年齢の専務に対して、改善がなされないので毎日大声で怒ったり
叱ったりしていました。
そして遂にオレは、
『長く取引を戴いたが、こんな事では取引を中止します』と
伝家の宝刀を抜く言葉を発しました。
それでも専務は、若輩のオレに土下座するぐらい謝りました。
その後、その専務に接待された時に、彼が酔いつぶれて発した言葉は
今でも忘れません。
『こんな若造に嫌味を言われ、暴言を吐かれ、プライドも叩かれても
我慢しているのは、仕事が欲しいから、自社の社員を食わ為。。。。』
『日立製作所の森幹雄であって、森幹雄の日立製作所では
無いないんだぞ。。。』
購買と言うポジションに甘え、有頂天になっているオレが、
その言葉で叩きのめされてしました。日立のオレ、購買課のオレ
であるから皆なペコペコし、笑顔で接してくれているが、
誰も“森幹雄個人”としてのオレに頭を下げて居るわけではありません。オレは何者?会社の名刺から日立製作所のロゴと会社名と取った
森幹雄は何者?購買課でなく反対に営業課に居たら立場は逆転?
サッカーの中田英俊よりも何十年も早く、自分探しの為、
米国に行く決意をし丸3年間お世話になった日立製作所を退社しました。
アメリカは、ロサンジェルスに滞在していましたが、
ダウンタウンの近くにあるエバンスアダルトスクールに
通学していました。
学校が終わると直ぐ居候しているアメリカ人夫婦の家に帰り、
家の掃除、ベットメイキングと洗濯と夕食作りの世話をし、
食器を洗い、かたずけて1日が終わります。
翌日は、学校に行く前に庭に水を撒き、
朝食の準備をして学校に急いで行くのが日課でした。
始めは1部屋を借りてホームステイ、と思っていました。
しかし多少小使いが貰える、と言う事で家事のお手伝いを
していましたが、次第にお金もっとり欲くなり、
女中(男中)さんのように働き始めました。
お陰で今でもシェフ顔負けのオーブン料理が出来ます。
家は、ロスを一望に出来る丘の上にあり、近くに有名な展望台や
野外演奏場があるグリヒスパークの中の高級住宅街で、
家には大きなプールもありました。
家主は、老夫婦ですので食事も簡素でドケチで黒塗りのキャデラックに
乗り、毎週新聞の折込クーポンを集めてロスのスーパーマーケットを
動き回っていました。
ガソリン代の方が割引より多い筈なのにと思いながらも
色々な所へ行く事ができるのでオレは買い物を楽しんでいました。
只、お客様が来た時の食事の準備やサーブは一番嫌な事でした。
何故かと言うとこの老夫婦は、ゲストが来ているときには用事があると
俺の名前を呼ばず、卓上ベルを鳴らします。まるで犬みたいで、
ベルが鳴るとイェッサー(Yes,Sir)、イェッスマダーム(Yes,Madam)と
言い、お伺いするのです。
悔しくてく悔しくて拳を握り締め仕事をしていました。
屈辱感から、ベルが鳴るたびに必ずベルを鳴らす立場になるぞ!と
誓いましたが、当地でメイドを雇う立場になっても一度もベルで
人を呼んだ事はありません。
その代わりにクリスタルで出来た色々なベルを100個以上集め
棚に飾っています。
それを見るたびに懐かしいアメリカ時代を思い出します。
日本語FM放送開局については、一冊の本が書けるぐらい、
数々のエピソードがあります。
又、辛い経験、楽しい経験等、今までに無い色々な事を
この放送ビジネスを通じて経験しました。
海外で万一天災に遭遇した時、どう対処したら良いか?など
日常生活でも考えていましたが、神戸の大地震の7日後に
神戸事務所の応援で神戸に行った時には、身の毛の振るえが続き、
恐怖感に溢れ、涙が止まりませんでした。
日本語が通じる日本でさえ、大災害の時は、どうしようもないのに
海外で、まして日本語が通じない場所で万一、
災害と遭遇したら・・・。
当地に日本語放送があれば、災害、惨事のような緊急事態時に
何かの役にたち、その後もライフラインのケアーも出来ると思いました。
でも外国人に放送枠を渡す事は、何処の国でも難しい事は、
理解していました。しかし誰かがやらないと・・・。
そんな時に、通信情報大臣のジョージ・ヨー大臣と知り合う事が出来、
彼の部下にラジオ放送を是非開局させて欲しいと強く訴えました。
その後、INTRENATIONAL CHANNEL(日本語、フランス語、ドイツ語の
3ヵ国語)が開局される事になり、諸手を挙げて参加しました。
1社の放送を独占させるのは、良くないと横槍も入り、
1998年10月12日に2社(その後他社は退散)で
日本語FM放送を東南アジアで初めて10KWの出力の電波を
飛ばしました。
最初は、2時間程度の放送が、朝2,5時間、夕方2,5時間、
夜3時間の毎日休み無く、合計8時間も放送していました。
全くの素人が、放送番組を作り、放送したので大きな苦労
(放送“ジングル”の意味が解らずクりスマスのジングルとの
勘違いなどや、SINGAPORE政府の手配でTBS、文化放送の局長と
ラジオ放送はどうあるべきか、の激論等々・・・。)は
ありましたが、今から考えると皆楽しい事ばかりです。
でもお陰で大きな投資となり、家が2,3軒買えるぐらいまで
金を注ぎ込みました。それは未だに回収出来ていません。
これからも日本語放送でお金を儲けるのは不可能です。
でもお金では買えない、オレの今まで生きてきた人生の証と勲章を
手に入れました。
“勲章”と言っても政府機関が授与する物ではなく、
たった小さな便箋3枚に書かれた手紙です。
アジアの時代と言われて久しいですが、外務省の最新情報、
と言っても、2006年10月1日の統計ですが・・・。
世界中に長期滞在する日本人の数は、北米のそれを抜いて
初めてアジアが世界一になりました。
北米は、26万3756人。アジアは、26万7064人で地域別で
首位に躍り出ました。
都市別では、ニューヨークの4万8439人。上海が4万3960人。
ですが、上海は、単身赴任者や若年の駐在員が多い為、在留届けを
出す人が少ないのと統計されたのは、昨年なので今の伸び率から
考えれば、世界中で日本人が一番多く住んで居る事になります。
海外引越や日本語のメディヤを生業にしているオレ達にとっては、
日本人の数が増加する事は、市場規模が大きくなる事なので
嬉しい限りです。
ロングステイーや留学生の事を考えれば、更にアジアにもっと日本人が
住む事になると思います。
更に北南米に見られるような、日本人二世達が、
此れからどんどん増え、力をつけて来るのは間違いないので
真のアジアの時代はこの日本人社会の二世、三世達が築くと
確信しています。
今、力と知恵が円熟して来たアジアに30年も滞在し、ビジネスが出来、
更に大きなチャンスが到来する時を迎え、オレはつくずくなんと
強運に恵まれた男なんだな、と思います。
5人も子供を持っていると、
「色々と大変でしょう?」「お金も掛かるでしょう?」等々、
よく言われますが、子育てでなんといっても一番辛かったのは
毎朝子供の弁当を作ることでした。
当地の日本人学校は、私立(大使館の元に日本人会が運営)なので
給食制度がありません。
子供達は、日本人小学校1年生から日本人中学3年生まで
弁当生活でした。10年間で子供5人が生まれていますので
毎日が弁当との格闘です。
最初は、マレー人の妻が、本屋から取り寄せた『お弁当の作り方』
等を参考に“創って”(殆ど創作なので…)いました。
ご飯は、当地で販売されているカレー料理に合うパサパサした
タイ米を使っていたので昼頃になるとパサパサの米が、
更にパサパサになり、到底お箸では、食べれれない状態の
ご飯になっていました。
そんなご飯を周りの子供からからかわれたりしていたようでした。
ある日、カバンの中にある弁当箱をみたら、全く手付かずでした。
何故食べないのかと聞くと黙っていました。
そんな事が再三再四あったので子供に聞くと弁当でからかわれるので
食べないと……。その事をマレー人の妻に言うとご飯が嫌なら
明日からパスタ、と変な方向に行ってしまいました。
翌日の弁当は、弁当箱全部にスパゲッティー、でこれまた子供達は、
開けて瞬間に弁当箱を閉じたようです。
母親が一生懸命創ってくれるのは解っているので学校から帰ってきて
直ぐするのは、家の前のゴミ箱に弁当を毎日捨てる事でした。
夫としては、妻の気持ちもわかる、父親として子供の気持ちもわかる。
という事で、最終解決策は、オレが毎日弁当を作る事となりました。
米国で学生時代に住み込み女中(男)紛い的な事はしていたので
料理には自信がありました。
ゆで卵も、ウインナーもただ単に切らずに色々な形を作りました。
ご飯は勿論、日本のお米と同じオーストラリア米を使い、
上に海苔やふりかけ、胡麻で言葉や絵も描きました。
接待で幾ら遅く帰っても、仕事で疲れていようとも毎朝6時には、
眼をこすりながら起きて弁当を作りました。
弁当の無い水曜日と土曜日は、本当に嬉しい日でしたが、
日曜日は、スーパーで来週の弁当のおかずを考えながら
買い物するので憂鬱な日でした。
しかし、空の弁当箱を見る事で又、嬉しく、励みになりました。
でも時々手抜きをした日は、家の前のゴミ箱を開けて
見たりもしましたが…。
5人の子供は、オレの弁当で育たと自負していますが、
実は子供のほうが上手でオレがうまく煽て挙げらていたかも
知れません。