メイン

回顧録 アーカイブ

2007年03月24日

波乱万丈

「今まで波乱万丈の人生を過ごして居らっしゃいますね」と
良く言われるのですが、本人は、そんなに波乱万丈とは
思っていません。

人より多少、大波、小波と落差のある波を受けているのは
間違いありませんが。。。そう思えるのも幼年期に他人より苦労
(今から考えると有難い試練)をしたからだと思います。
お陰で 早くからビジネスを体で覚える事が出来ました。

家が代々婿養子を貰う女系の家系で父親も婿養子、絵書きの
お祖父さんもです。そんな家系でやっと跡取り長男息子の私が
生まれた時は、母は、安堵とご先祖様に胸を張れると言ったとの事。

でも色々な問題があり、家庭は貧困状態で小学3年生の時に
母が大病し長期入院生活しました。
卵一個が、一家6人の夕食のおかず
(大きな鉢に卵を溶き、此れにメリケン粉と水、醤油を混ぜた後、
ご飯を入れかけ混ぜる)という時が多くありました。
自分の欲しい物が、全く買って貰えず、学校給食だけが
唯一の楽しみでした。

そんな中、どうしても皆のように自転車が欲しくなり
小学4年生の夏からラムネ工場で空き瓶を洗うバイトをしました。
バイトのお金は、高が知れていました。
しかしオレは、ある方法で稼ぎを増やしました。
その方法は・・・。

ラムネのビンが割れると、内にあるビー玉が出てきます。
工場のドブ掃除をして、「ビンが床にあると危ないので捨てて来ます」と
言い、このビー玉を貰って帰りました。
そしてその手に入れたビー玉を近くの子供達に売り、
お金に換えました。
廃棄処分品を手に入れ再販する事を実体験したのです。

このバイトとビー玉のお金だけでは自転車は買えないので、
くず鉄屋さんに行き、中古の自転車の部品だけを譲る受けました。
女性用の自転車、蕎麦屋の出前用の自転車、子供用、大人用、
スポーツ用と色々な部品を組み合わせブレ-キは、一つだけ、
車輪のカバーもない、サドルだけが大きい
自慢のオリジナル自転車を組み上げました。

それから天体望遠鏡が無性に欲しくなり新聞配達を5年生の時から
朝、夕刊の配達を雨が降ろうが雪が降ろうが毎日続けました。
今でこそ、朝刊は月に1回休刊日が有りますが、
昔は、子供の日とお正月だけが休刊日でした。

それ以来、親に金を渡した事は有りますが、
親から金を貰った事はありません。
 

2007年03月26日

新聞配達

小学生の頃、アルバイトで京都新聞を配達していました。
朝5時前に起き、愛車の自転車で販売店に行き、
1時間半ぐらい掛かって配達します。
週末になると商店街や不動産などの折込み広告が入ってきます。

この折込チラシを新聞の内に入れ、配達すると別途お金を貰えるので
張り切って前夜に販売店に行き、色々なチラシを一纏めにして置き、
明日の朝、新聞が到着したら、直ちに新聞の内に入れて行きます。

それ以外の収入は、拡販(朝日、読売、毎日新聞などを取っている
家庭に行き、京都新聞に変えて貰う営業)です。
この仕事は、競争が厳しく、3ヵ月契約すれば1ヵ月無料とかタオル、
洗剤をプレゼントとかあの手、この手で契約を取り合います。
スポーツ新聞も一緒に配達していましたが、デイリースポーツ新聞は、
そんな専門員を置いていませんのでプロ野球がシーズンを
終えると皆、翌春の開幕戦まで新聞を取りません。
そこで毎年春秋にキャンペーンして契約解除を防いだり新規読者を
増やしたりします。

そのキャンペーンの賞品が豪華で皆は、契約のトップ争いします。

私も賞品のペリカンの万年筆が、どうしても欲しかったので
頑張りました。結果は、なんと京都でNo.1! 万年筆どころか
1泊2日の天野橋立と温泉旅行に招待されました。
旅館に着くと綺麗な芸者さんが沢山いましたが、
小学6年生の私には関係ありません。酒も飲めず料理ばかり
食べていたいました。
舞台に呼ばれ責任者からNo.1として紹介を受けました。
『小学6年生に負ける大人の君達は。。。。』とも仰っていました。
温泉の有難味も解りませんでしたが、新聞配達を休める事だけが
嬉しかった。

京都で一番になれた理由は、
まず近くの工事現場に行き、そこで責任者と思われる人に
スポーツ新聞を取って下さいと頼みます。
すると『何故子供がそんなことをするのか?』必ず聞かれます。
すかさず『ペリカンの万年筆がどうしても欲しいので頑張っています!』結果は、即、契約です。
その後、その責任者が色々な現場にも声をかけてくれて
あっと言う間にNo.1!。
きっとこの工事現場の責任者の人も私と同じ様な子供を
故郷において来て親身になって応援してくれたと思います。

此れで営業と何か?どうしたら大口契約を取れるか?を体で覚え、
欲しいと思った物は、欲しいと思い続け努力すれば必ず何時か
自分の手に入る事も経験しました。

どうしても欲しかった天体望遠鏡は、反射型を買いましたが、
2,3回覗いただけでした。毎夜、月や星座が輝く始める頃には、
もう眠くて眠くて布団にもぐり込む日々でした。毎朝、5時前には
起きていましたので・・・。

2007年03月28日

アルバイト

新聞配達以外にしたアルバイトは、
中学2年生から高校3年生までしていた牛乳配達です。
新聞配達より楽で牛乳も飲める、そして時間に余裕があるので
転職(?)しましたが、冬に冷たい牛乳瓶を運ぶのは辛い仕事でした。


社会人になってからは、深夜喫茶店のウエーターと
英語教材の販売です。何れもアメリカに渡米し留学する為の資金を
貯める為でした。


昼間は大阪の淀屋橋に有った日立製作所に勤務し、
終業時間が来ると真っ先にエレベーターに乗り、
京阪電車の特急電車で京都まで帰り、先斗町の近くにある
深夜喫茶で26時まで働きました。

それでも資金は貯まりません。休暇を取ってブリタニカの百科事典と
英会話の教材カセットテープをセットにして販売していました。


33年前で50万円もする高価な教材でした。しかし、
若手社長、医者、先生、商社マンなどに売りまくり、
その販売会社での新人記録を更新しました。
秘訣は、まず電話でのアポとりと自ら考えたセールストークでした。


契約してもらう為の最後の決め台詞は、
『この教材で毎日30分練習すれば、3ヵ月後に外国人とスムーズに
会話が出来ますよ!!』といったオーソドックスな物ではなく、
『この教材で練習して彼女と洋画を観に行って下さい。
会場の人々は右端の字幕を見ていますが、貴方は、
映画館にいる誰よりも早く驚き、感動し、笑い、泣きますよ!
横で見ている彼女は間違いなく羨望の目で貴方を惚れ直す事、
間違いありません。保証します。。。』


人間の欲望に訴えないとヒトは高価な商品を買わない、
このアルバイトで得た教訓です。
その当時、日立製作所の給料は、1ヶ月の手取りで8万円位でした。
しかしこの英会話教材販売では、3ヶ月間で150万円を稼ぎました。

これで日立製作所を退社してアメリカに行く渡航費用と滞在費を
作り出した訳です。

2007年03月30日

漕艇部(ボート部)

海外で若輩のオレが会社を立ち上げ、SINGAPOREだけに止まらず
アジア各国に新会社、支店を開設できた大きな理由は、
幼年期の赤貧の経験とそこから脱出する為に自らアルバイトして
自活してきた事ですが、もう一つの大きな要因が、
高校時代に運動部で活躍した事です。


親父が、若い時に海外航路の船員をしており、子守歌代わりによく
海外の話を聞いていたので工業高校を卒業した後は、
海上自衛隊の学校か商船大学に行く夢を持っていました。
そんな影響で高校1年生の時に漕艇部に入部しました。
野球やサッカーは、小さい時から練習をして経験を積んでいる者達と
比べ、アルバイトに明け暮れたオレが、いまさら野球やサッカーを
しても即レギュラーには、成れないと考えていました。


このスポーツ、ボートは、湖、川、海がない所では練習が出来ません。
京都の洛陽工業高校は、今のJR、京都駅の次の駅、西大路駅の近くに
ありました。練習場所はそこから電車に乗り、滋賀県の石山駅で
下車した所の琵琶湖とその下流の瀬田川でした。
1年生の夏から先輩を差し置いて主将になり、1年生の新人戦では
京都府で優勝!2年生からインターハイ、国体と出場し3年生までに
常勝チームを作り上げました。


鬼の森と近畿地区では、言われたぐらい厳しい主将でした。
1年生の時は漕ぎ手でしたが、皆との身長、リーチ差が大きかったので、漕ぎ手を辞め、ラダーを引くコックスになりました。
ボートの上では、コックスが船長ですので全てコックスの指示に
従うのが原則です。主将で船長役のコックスをしていましたから誰も
反抗出来ない状態でした。
それだけに人の3倍勉強しました。
先輩コーチがいましたが、それほど熱心でなく、古い考え、古い方式、
根性論が全ての人だったので、効率の良い漕ぎ方、練習方法を調べる
為に近くの艇庫にある実業団や大学のボート部に教えを請う為に
何度も頭を下げました。


理論武装し陸トレも皆に負けない状態にしたのでメンバーは仕方なく
オレの言う事に反発せずついて来てくれました。
現役チームが勝ち続けるので後輩のチームも同じ様な頑張り、
私が卒業した年には、国体3位入賞するまでの成績を上げ、
更に翌年の後輩は、インターハイ2位になりロンドンのテームズ河で
行われた世界選手権にも出場できるぐらいになりました。


漕艇部に入って得たことは、
いち早くNO.ONEになりたかったらニッチな事に注目をする、
という事です。ボートに馴染んでいた青年なんて伝馬船を漕ぐ
漁師の息子ぐらいしかいませんし、伝馬船と競技用の漕艇とは
漕ぎ方が、天と地の差です。
もし野球をしていたら甲子園どころか平安高校なんかに毎年1回戦で
大負けしていたでしょう。
それとボートには、リーグ戦やトーナメント戦などは無く、
予選、準決勝、決勝と戦い続けるのですが、
予選に限り敗者復活戦があります。
誰もが失敗を経験しますが、この素晴らしい敗者復活の思想が、
今でも体の奥まで染み付いています。

2007年04月02日

学校の成績

朝からバイトをしていましたので、小学校から高校まで、
2時間目までは、机の上で睡眠をとり、
3時間目の後半で目が覚め、
4時間目で食欲を戻して昼食を食べ、
5時間目で軽く昼寝してベルの音で目を覚ます、というのが日課でした。

体育の時間だけは、飛び回っていましたが、それ以外は。。。。
勉強を全くしていなかったので進学は、
工業高校でないと無理、と担任の先生から言われていました。
勿論お金が無いので私立の高校には、行けないので。


中学3年生の後半から勉強して何とか市立の工業高校に合格しました。
高校生になっても朝のバイトは、継続していましたので
朝寝、昼寝の日課は変更なしです。


特にボート部では、主将という立場、それから
まだ一般的でなかったサーキット・トレーニングや
自家製バーベルを使い筋力トレーニングをしていた、
また滋賀県にある琵琶湖、瀬田川まで汽車に乗り移動していた、
という諸々の事情により、帰宅時間は毎日9時半位(冬季以外)でした。
休みも毎年、正月の2日だけでした。


そんなオレが、超一流企業の日立製作所に入社出来たのも
最高の内申書を書いて貰ったからです。
数学、国語、英語などの基礎科目以外の機械専門科では、
担当の先生や他の先生が、試験の前にこの辺を良く勉強しとけと
こそっと教えてくれていましたので成績は4か5でした。
恥ずかしい話、英語は全く出来ず万年、運動会の行進曲状態でした。
(掛け声で1、2、1、2、。。。)


工業高校の先生は、他の高校に異動する事も無くその高校で
退任するのが当たり前でした。
オレが、ボート部を近畿で有名にしたという事を気に入ってくれた、
と思っています。


ビジネスでも如何に応援者を多く作るかです。
真面目にこつこつと一生懸命、努力している事は、
誰かが見ていてくれます

2007年04月03日

技術の日立製作所

技術の日立製作所の入社試験は、
筆記試験と面接試験がありました。
面接試験は、筆記試験の後にあり試験日が、
丁度インターハイの試合日と重なっていました。


上位入賞を皆で狙っていたので主将兼コックスのオレが不参加では、
その夢も経たれる、と思い、面接官に事情を説明して面接日を
別の日に変更して貰いました。
入社希望者の一方的な理由で面接日を変えるのは一流企業では
有り得ませんが、当時の担当者が偶々同じ京都の出身だったので
無理を聞いてもらえました。


万一希望が叶えられなければ、他社に入社する気でいましたので
その迫力と、チームの為、学校の為、郷土の為、という心構えが
気に入られたのだと思います。
こいつは、会社の為、組織の為なら何でもすると思われたかも
知れません。


入社が決まり、配置されたのが、日立製作所、淀屋橋にある
大阪営業所でした。京都から京阪電車で自宅から90分程度
掛かりましたが、琵琶湖に通ってた事を考えると
苦にはなりませんでした。


研修期間から、リーダ的な存在で面接試験日を変更させた男として
既に知れ渡っていました。直ぐに同期会を発足させ幹事役をしました。
研修後、配置されたのが購買課です。東京の本社と大阪の購買課が、
全国にある工場から依頼され色々な資材を調達する部署でした。


課に配属された数週間後に工場に行ってどんな物を作っているのか、
更に研修が行われました。同期はまだ見習い的な仕事を
していましたが、当時の課長に気に入られ、工場廻りしてから即、
鉄鋼品の担当者になりました。当時は鉄は国家なりとの言葉を
言う人いるぐらいに基幹産業で、一流の大学を卒業した大手商社の
係長、中堅商社の課長、次長、中小メーカーの場合は、
取締役や専務が私との交渉人でした。


そんな人々に高卒の新人が、
負けるものかと張り切って仕事をしていました。

2007年04月04日

購買課

購買課には、大卒は、経済学部、高卒は、商業系の人たちばかりで
工学部や工業高校卒の課員はいませんでした。
当時の課長の言葉によると、「技術の日立製作所なのに機械や技術に
強い課員が居ないのは問題だ。そこで君を採用した。」と言う事で、
毎日張り切って仕事をしていました。

JIS規格やISO規格を覚え、メーカの技術者に色々とお教えて貰ったり、
取引先の工場見学も頻繁に行きました。
素材の知識を増やす為、鉄鋼品や非鉄金属を発注していましたが、
新金属のチタンも買っていました。軽くて強く耐食性に優れた
この金属は、化学プラントの熱交換器等に使われていました。
只、高価な為、無垢でタンクを作れない為、ダイナマイトを使い
爆発させて他の金属と張り合わせる工法や真空溶接などあり
新金属に対する知識と技術の理解力が必要で、
オレが正に適任者でした。

宇宙開発でロケットなどに使われていた貴重で高価な新金属の
チタンが、今の様にゴルフのドライバーに使われたり、
眼鏡のフレームになるなんて夢にも思っていませんでした。

あっと言う間に1年が過ぎ、2年目を向かえた時に将来を考える事件に
遭遇しました。この事件により、3年間勤めた日立製作所を退社し
21歳で米国に渡米する事になり、
さらにその後、SINGAPOREに来るきっかけにもなるとは、
チタンと同様、夢にも思いませんでした。

ところで、科学記号で鉄はFe、アルミはAl、と記載しますが、
チタンはどう表記する?

2007年04月08日

退社の理由

日立製作所を退社した理由は、3つ有ります。
1)学歴
今でこそ何処の会社も実力主義、成果配分などと言っていますが、
30年以上の前は、終身雇用、学歴主義の世界でした。
まだ若かったオレは、工業高校しか卒業していなくても将来、
天下の日立製作所の社長にはなれないかもしれないが、取締役程度は
絶対行ける!と思っていました。オレの夢を先輩達に話すと
笑い飛ばされてしまいました。
彼ら曰く、取締役どころか、大卒の“おもり”をした後、
10年もしないうちに子会社、孫会社に転属されそれでお終い。。。。
確かに周りを見廻すとそのとおりだし、先輩達と飲みに行くと
会社の愚痴と上司の悪口を延々と赤提灯の下で話している姿しか
見えませんでした。

2)派閥
それなら労働組合の幹部、書記長や組合委員長になれば、
社長と対等に話が出来る!と思い、組合活動に力を入れていました。
青婦協のトップまで行き、全国弁論大会にも中部代表として参加し、
皆から優勝や!と言われるぐらい、内容も態度もピカイチでした。
がしかし、優勝したのは、労働組合のお膝元、日立工場の人間。
そこで労働組合にも派閥があることを知りました。
組合委員長に就任、その後、電気労連の委員長、更に社会党から
出馬して国会議員へ!という夢はあっさりと消え去りました。

3)会社というブランド
ある取引先での出来事。。。
この取引先に対しては、クレームがかさみオレの父親みたいな
年齢の専務に対して、改善がなされないので毎日大声で怒ったり
叱ったりしていました。
そして遂にオレは、
『長く取引を戴いたが、こんな事では取引を中止します』と
伝家の宝刀を抜く言葉を発しました。
それでも専務は、若輩のオレに土下座するぐらい謝りました。
その後、その専務に接待された時に、彼が酔いつぶれて発した言葉は
今でも忘れません。
『こんな若造に嫌味を言われ、暴言を吐かれ、プライドも叩かれても
我慢しているのは、仕事が欲しいから、自社の社員を食わ為。。。。』
『日立製作所の森幹雄であって、森幹雄の日立製作所では
無いないんだぞ。。。』
購買と言うポジションに甘え、有頂天になっているオレが、
その言葉で叩きのめされてしました。日立のオレ、購買課のオレ
であるから皆なペコペコし、笑顔で接してくれているが、
誰も“森幹雄個人”としてのオレに頭を下げて居るわけではありません。オレは何者?会社の名刺から日立製作所のロゴと会社名と取った
森幹雄は何者?購買課でなく反対に営業課に居たら立場は逆転?

サッカーの中田英俊よりも何十年も早く、自分探しの為、
米国に行く決意をし丸3年間お世話になった日立製作所を退社しました。

3年坊主の伝説社員

日立製作所で3年間しか働かなかったオレですが、
退社したいと辞表を上司の渡すと皆が止めてくれました。
部下が退社する旨が有る時に
それを止めるのは3つの理由があります。

1)本人が退社する事で業務が滞る場合。
誰かがその仕事を引き継ぐ必要があり、
また専門的な仕事を担当していればいるほど即、
上司や同僚に負担が掛かるので退社を遅らす、又は
次の候補が見つかるまで退社する事を止めます。
更に急に退社する部下が居ると言う事は、本人の上司が、
その上司から管理能力不足と言われてしまう、
つまり上司本人自身に罰点が付く事を嫌う、と言う要因もあります。

2)自分を肯定する場合。
退社する理由は色々とあるだろうけれども、上司である俺も辞めたい、
だけれども家族も居るし家のローンもあるし、世間体も。。。。。
退社する者を妬むと共に、未だにその会社にしがみついている自分を
肯定する場合です。その際は「ほかの会社に転職しても何処も一緒!」
と説得されます。

3)本人の事を見極めている場合。
退社しようとする部下の思いと能力をきっちり判断し、一時的な思い、
または感情で退社しようとしている場合は部下を諌めます。
退社して次の目標が定まらない状態なら必ず退社を止めます。
しかし、場合によっては本人の将来を考えて止めるどころか
応援する側に廻る事も有ります。

オレの上司や元上司に、退社してアメリカに渡り留学する事を明したら、
それは良いことだと薦め、羽田空港(まだ成田は港していませんでした)
まで元同僚達と一緒に見送りに来て頂きました。

だからオレは、今でも退社する人を押しとどめませんし、退社を理由に
条件交渉する社員は即、退社せよ!と言います。
色々な会社を渡り歩き、その度に上司が、退社を認めてくれたからこそ
今のオレが在ります。

昔の職場は、本社に統合され廃課になっておりOB会も
開催されなくなりましたが、今年オレがSINGAPORE滞在30年の節目に
なるということで、元上司が発起人となりOB会を開催してくれ、
祝ってくれました。

たった3年間しか勤めていませんが、大勢の人に参加して戴き、
皆が一番印象に残る伝説の社員だ!と昔話に花が咲き、
嬉し涙が大量に流れ出た日でした。

2007年04月10日

憧れの男

サラリーマン生活を辞め、渡米したのも1冊の本に影響された為です。

その著者は、ロッキー・青木氏。

彼はローマ・オリンピックでレスリングに出場、 その帰路、
ニューヨークに滞在し、スラム街で、紙で作った日本傘を 付けた
アイスクリームを大ヒットさせ、その儲けで 日本食レストランを開店、
火鉢でステーキを焼く“元祖鉄板焼きステーキ”の原型を築き、BENIHANA OF TOKYOという 名前のレストランを米国だけでなく
世界中に作り、遂にはタイム誌の 表紙にまでも掲載された男の、
サクセス・ストーリーです。

この本を何百回も読み返し、こんな男になりたいと憧れ続けました。
実際、オレはアメリカで、この本に出てくる何十倍の苦労もしましたが
そんなときにも大きな支えになりました。

残念ながらアメリカに居た時には、貧乏生活で最初の1年間は
一度も日本食を口にした事はありませんでした。
勿論、一度も“ベニハナ” には行けませんでした。
滞在2年目になり、初めて食べられた日本食レストランは、
“ベニハナ”に似た名前の「紅馬車」と言う、韓国人オーナーの店で、
そこで『きつね丼』を食べた時は、涙が出ました。
当時は何時もホットドッグやハンバーガーを食べていました。
日本のモスバーガーの創業オーナーが、その味を真似た店にも
良く通っていました。

ロッキー・青木氏は、成功後スピードボートや気球に乗ったり 華やかなに過ごしましたが、離婚を何回もしてその度に慰謝料を 取られたり、
騙されて店を他人に盗られたりと波乱万丈の人生を 過ごしていました。
10年程前、バンコクで“ベニハナ”が開店した際にお目にかかった 時には肝炎を患い、オレの理想の男は、見るも無残な状態でした。

幾ら華やかな人生を送っても歳を取ってから、枯れた花のように ならない様、もっと努力をしなければ、と再認識させられました。

人間、棺桶に片足を入れた時に、俺の人生は楽しかった、面白かった、 と胸を張って言いたいと思っています。

2007年04月11日

クリスタルのベル

アメリカは、ロサンジェルスに滞在していましたが、
ダウンタウンの近くにあるエバンスアダルトスクールに
通学していました。

学校が終わると直ぐ居候しているアメリカ人夫婦の家に帰り、
家の掃除、ベットメイキングと洗濯と夕食作りの世話をし、
食器を洗い、かたずけて1日が終わります。
翌日は、学校に行く前に庭に水を撒き、
朝食の準備をして学校に急いで行くのが日課でした。

始めは1部屋を借りてホームステイ、と思っていました。
しかし多少小使いが貰える、と言う事で家事のお手伝いを
していましたが、次第にお金もっとり欲くなり、
女中(男中)さんのように働き始めました。
お陰で今でもシェフ顔負けのオーブン料理が出来ます。

家は、ロスを一望に出来る丘の上にあり、近くに有名な展望台や
野外演奏場があるグリヒスパークの中の高級住宅街で、
家には大きなプールもありました。
家主は、老夫婦ですので食事も簡素でドケチで黒塗りのキャデラックに
乗り、毎週新聞の折込クーポンを集めてロスのスーパーマーケットを
動き回っていました。
ガソリン代の方が割引より多い筈なのにと思いながらも
色々な所へ行く事ができるのでオレは買い物を楽しんでいました。

只、お客様が来た時の食事の準備やサーブは一番嫌な事でした。
何故かと言うとこの老夫婦は、ゲストが来ているときには用事があると
俺の名前を呼ばず、卓上ベルを鳴らします。まるで犬みたいで、
ベルが鳴るとイェッサー(Yes,Sir)、イェッスマダーム(Yes,Madam)と
言い、お伺いするのです。
悔しくてく悔しくて拳を握り締め仕事をしていました。
屈辱感から、ベルが鳴るたびに必ずベルを鳴らす立場になるぞ!と
誓いましたが、当地でメイドを雇う立場になっても一度もベルで
人を呼んだ事はありません。

その代わりにクリスタルで出来た色々なベルを100個以上集め
棚に飾っています。
それを見るたびに懐かしいアメリカ時代を思い出します。

2007年04月13日

頭の中で何かがスパーク

米国人の老夫婦に同居しアメリカの生活を身体で体験しましたが、
奴隷のような扱いと勉強より米国でビジネスを勉強したかったので
その家を出て、ハリウッドの近くにアパートを借り、
仕事を探しました。しかし、簡単には見つかりませんでした。

理由は簡単、ビジネス英会話力がまだ付いていなかった為です。
それで毎午後からサンセットブルバードにあるバーに行き、
カウンターに座り、いつもビールをちびりちびり飲みながら
そこにいる女性のバーテンダーと会話していました。

お酒の力を借り英語をしゃべる恥ずかしさを消し、又、舌の回転も
よくなると思い毎午後通うと此方はお客ですので彼女も時間つぶしに
会話してくれました。

ある時、追加オーダーしていないのにビールが運ばれてきました。
まだ頼んでいないよ!と言うと『THIS IS ON THE HOUSE』と言われ、
彼女は、目をウインクしました。
最初はこの意味が全く解りませんでしたが、
何となく私のおごりよ!。。。と言っているのが解りました。
それまで日本語を英語に、英語を日本語に置き換えて話していたのが
その時から頭の中で何かがスパークして、
今までとは違う頭脳回路が、出来ました。

学校では習わない生きた会話が、その日から出来始め、
英会話が楽しくなり、コンプレックスもなくなりました。
お陰でその後、ロスのダウンタウンに有る某航空会社系の
旅行会社に入社することが出来ました。

2007年04月18日

憧れ!オーストラリア

VISAの問題でアメリカを離れ、日本に戻ってきました。
1年半程度の滞在でしたが、海外でも生活できる自信は何とか
付きました。

帰国後、インドレストランの支配人になった事は、既に書きましたが、
毎日ビルの地下で朝から深夜まで働いていたのでどうしても又、
海外に行きたくなりました。

その思いで、今、SINGAPOREに30年間も滞在しています。
よく何故、SINGAPOREを選ればれたのですか?と聞かれますが、
『世界地図を広げ、ロジスティク的に考えたり此れから発展する
地域、国を考え、当地を選びました。。。』と
回答するようにしています。
すると「先見の目がありますね。。。流石ですね。。。」と
言われるのですが、実は、単純にUSAみたいな大きな国、
AUSTRALIAに行きたかったのです。

只、その比は、まだオーストラリアは、白豪主義が残っており
日本人と言えどもVISAの問題など厳しい扱いでしたので
とりあえずユニオンジャックの国、英国の元植民地であるなら、
単純に数年居る内にオーストラリアに行ける情報も手に入ると
思い当地を選びました。

毎日毎日、英字新聞を目をこらしながら見ていたら
SINGAPOREで求人広告を発見!即応募しました。
日本にも関連会社があるのでそこで面接を受けましたが、
採用、不採用の通知が1ヶ月にも経っても返事がありませんでした。
そこでその関連会社に電話すると不採用の通知を
面接した日に送っていますと冷酷に言われました。

その3ヵ月後に別の方法で、SINGAPOREに来る事が出来ました。
オレは強運だ!とそのとき本当に思いました。

2007年04月27日

補欠の補欠の補欠

SINGAOREの会社面接が、不採用になったと書きましたが、
不採用の通知も届かない会社だったので、日本支社に文句の電話を
入れましたが、ケンもホロホロに君が採用される訳は訳無いだろ。。。
とまで言われました。

しかし3ヵ月後にオーナのアメリカ人が日本に来ているので
再度面接したいと電話がありました。事務所に行くと英語のテストを
又やらされ色々な意地悪な質問をされた後に
『君は、海外で仕事する気が本当に有るのか?』と質問されました。
此の質問には、頭に来て『そもそも3ヶ月前に面接を受け、
採用、不採用の通知も出さずにこちらから問い合わせして初めて
不採用が判明し捨て台詞をされ今回再度面接を受けさせられ、
英語のテストも受け。。。。此れだけの事をしているのは
海外で働きたい一心だ!良くそんな質問できるな?』とアメリカ人の
社長にふざけるなとくってかかったところ、即採用となりました。
彼曰く、『日本人は感情を余りださないしディベートが出来ない人が
多いけど君は違う』と言われました。

それから研修期間も無く、即SINGAPOREに赴任せよとの条件で、
1週間で身辺処理をして羽田から再び海外に飛び立ちました。

この出発前日に他の社員から聞いたのですが、
3ヶ月前に採用した人は、研修期間中に家族の反対で
海外に行けなくなり退社、もう一人の採用した人も途中で病気になり
退社、3番目の候補は既に他社に採用されていた、
と言う事でもう一度新聞広告を出して募集する準備をしていたところ、
不採用としたけど変わった面白い人間がいると誰かが気が付き、
君を再度面接したとの事。

君は補欠の補欠の更に低い補欠候補だったので皆は君の事は
そんなに期待していないので体を壊さないように。。。

この言葉を聴いて頭が真っ白になりましたが、
今に見てろ!オレを採用した事がどれほど会社に貢献したか
見せてやると心に誓いました。

それにしても補欠の補欠、最低な補欠のオレですが、
強運が人一倍ある事を今も信じています。

2007年06月19日

小さな便箋3枚

日本語FM放送開局については、一冊の本が書けるぐらい、
数々のエピソードがあります。

又、辛い経験、楽しい経験等、今までに無い色々な事を
この放送ビジネスを通じて経験しました。

海外で万一天災に遭遇した時、どう対処したら良いか?など
日常生活でも考えていましたが、神戸の大地震の7日後に
神戸事務所の応援で神戸に行った時には、身の毛の振るえが続き、
恐怖感に溢れ、涙が止まりませんでした。
日本語が通じる日本でさえ、大災害の時は、どうしようもないのに
海外で、まして日本語が通じない場所で万一、
災害と遭遇したら・・・。

当地に日本語放送があれば、災害、惨事のような緊急事態時に
何かの役にたち、その後もライフラインのケアーも出来ると思いました。
でも外国人に放送枠を渡す事は、何処の国でも難しい事は、
理解していました。しかし誰かがやらないと・・・。
そんな時に、通信情報大臣のジョージ・ヨー大臣と知り合う事が出来、
彼の部下にラジオ放送を是非開局させて欲しいと強く訴えました。

その後、INTRENATIONAL CHANNEL(日本語、フランス語、ドイツ語の
3ヵ国語)が開局される事になり、諸手を挙げて参加しました。
1社の放送を独占させるのは、良くないと横槍も入り、
1998年10月12日に2社(その後他社は退散)で
日本語FM放送を東南アジアで初めて10KWの出力の電波を
飛ばしました。
最初は、2時間程度の放送が、朝2,5時間、夕方2,5時間、
夜3時間の毎日休み無く、合計8時間も放送していました。

全くの素人が、放送番組を作り、放送したので大きな苦労
(放送“ジングル”の意味が解らずクりスマスのジングルとの
勘違いなどや、SINGAPORE政府の手配でTBS、文化放送の局長と
ラジオ放送はどうあるべきか、の激論等々・・・。)は
ありましたが、今から考えると皆楽しい事ばかりです。

でもお陰で大きな投資となり、家が2,3軒買えるぐらいまで
金を注ぎ込みました。それは未だに回収出来ていません。
これからも日本語放送でお金を儲けるのは不可能です。

でもお金では買えない、オレの今まで生きてきた人生の証と勲章を
手に入れました。

“勲章”と言っても政府機関が授与する物ではなく、
たった小さな便箋3枚に書かれた手紙です。

2007年07月03日

手紙

オレの人生で最高の勲章は、FM放送のリスナーから戴いた手紙です。
番組内で、ある日本人女性にプレゼントが当選しました。しかし
当選したデジカメは、受け取れない、という連絡を受けました。
その理由を尋ねると『商品以上の物を貰ったから…』との事。
後日、彼女から手紙が届きました。

親の反対を押し切り、シンガポール人の男性と結婚、
子供も授かったが、ご主人の失業等で家庭は崩壊寸前状態が続く。
しかし親に相談も出来ず、友人・知人も無く、苦労に苦労を
重ねられていました。

唯一の心の支えは、我々が放送をしている
HELLO SINGAPORE FM96.3。
毎日、DJのトークが彼女を励まし、大好きな日本の音楽を
リクエストする事で気持ちをリフレッシュされていたようです。

しかし生活がどうにも上手くいかず、娘を抱いて公団住宅から
飛び降り自殺を考えた時、彼女の母が大好きな美空ひばりの曲が、
ラジオから流れたのです。
既にそのとき亡っていた両親のお陰で今の私が居るのに、
私は愛娘と一緒に命を絶とうとしている……、出来る事から、
少しでも良いからして一歩一歩前に行こう、と自殺を思い止めたのです。
 
『私の人生に新しい光、そして心の落ち着く場所をくれたDJの皆さん
そしてJ-PLUS、COMMの皆さん、本当にありがとうございます。
これからも皆さんを心から応援していますので、体に気をつけて
ステキな番組作りにがんばってください』と手紙の最後に
書いてありました。
 
一曲の音楽で尊い二人の命が救えた!
手紙を読み終え、人目をはばからず涙、涙で泣き尽くしました。

FM放送を開始してから多額の金を次ぎ込みました。
しかしラジオ放送していて本当に良かった、と思った最高の日でした。
また改めて音楽の力、素晴らしさに感動し、今まで長年お世話に
なった東南アジアの日本人社会に奉仕、貢献という意味合いからも、
出来る限りの努力をして放送を続けよう、と思った日でもありました。

2007年07月11日

オレまでメールをくれ

今回、ブログを書き始め、改めて、オレは本当に色々なジャンルの
ビジネスを懲りもせずに手掛けてきたんだなぁ~、と思いました。
 
それと同時にアジア各国にも支店を数多く創設し続け、
海外ネットワークでは、何処にも負けないぐらいになりました。
 
まず1980年に拠点のSINGAPOREに会社を設立しました。
そして初の海外支店を1984年にMALAYSIAの首都、
KUALA LUMPUR、1989年に同じくMALAYSIAのPENANGに
設立しました。
 
1992年にTHAILANDの首都、BANGKOKに設立し、
1994年には、MALAYSIAの第二の都市、
SINGAPOREの裏庭的なJOHOR BAHRUに、
更に1996年には、INDONESIAの首都、JAKARTAに設立しました。

翌年、1997年には、MALAYSIAの歴史的都市、MALACCA、
1998年には、香港に設立しました。
 
21世紀になり、2001年にINDONESIAの第二の都市、SURABAYAに
設立、2002年には、中国、上海に遅れせばながら進出しました。
 
そしてとうとうSINGAPOREにたどり着いてから27年目にして
日本、東京に会社を設立しました。
この時は、黒船に乗船し、日本に逆上陸して
日本の真のグローバル化ため、そのマインドを開国させようと
考えていました。
 
その後2005年に中国の首都、北京に作り、翌年2006年には
大連支店をオープンしました。
 
今後、2007年中には、ベトナム、2010年までには、
眠れる大国から目覚めたインドに進出(既に会社は登記済み)を
計画しています。

今後まだまだアジア地区に会社を設立していく予定です。
会社を創ることは出来ても、それを動かしてゆくのは“人”です。
ますます優秀な人材、パートナーが必要です。
アジアに於いてこれだけのビジネスの多角化と海外支店網を持つ
企業は無いと自負しています。

どう?この舞台で自分を演じないか?
我と思わん者は、オレまでメール(mori@comm.com.sg)をくれ!

2007年08月07日

アジアの時代

アジアの時代と言われて久しいですが、外務省の最新情報、
と言っても、2006年10月1日の統計ですが・・・。

世界中に長期滞在する日本人の数は、北米のそれを抜いて
初めてアジアが世界一になりました。
北米は、26万3756人。アジアは、26万7064人で地域別で
首位に躍り出ました。

都市別では、ニューヨークの4万8439人。上海が4万3960人。
ですが、上海は、単身赴任者や若年の駐在員が多い為、在留届けを
出す人が少ないのと統計されたのは、昨年なので今の伸び率から
考えれば、世界中で日本人が一番多く住んで居る事になります。
海外引越や日本語のメディヤを生業にしているオレ達にとっては、
日本人の数が増加する事は、市場規模が大きくなる事なので
嬉しい限りです。

ロングステイーや留学生の事を考えれば、更にアジアにもっと日本人が
住む事になると思います。
更に北南米に見られるような、日本人二世達が、
此れからどんどん増え、力をつけて来るのは間違いないので
真のアジアの時代はこの日本人社会の二世、三世達が築くと
確信しています。

今、力と知恵が円熟して来たアジアに30年も滞在し、ビジネスが出来、
更に大きなチャンスが到来する時を迎え、オレはつくずくなんと
強運に恵まれた男なんだな、と思います。

2007年08月15日

家族

今まであまり触れてない家族
(妻、4人の息子と末っ子の長女、猫3匹)を紹介します。

妻は、一つ年下のSINGAPORE国籍、マレー人です。
(妻の事は3月19日の“会社の危機”に出てきています)
日系の大手造船所で購買部長の秘書をしていました。
この造船所には80名程度の日本人社員が働いて
仕事ほしさに毎日通っていました。

部長には、事前にアポを取っていないと会えないので
チョコレートやお菓子を持って日参している内に接待して
食事をしたり、映画を見たりしている内に。。。

今で言う、できちゃった婚で、妻の両親に事情を説明すると
回教徒以外の異教徒とは、親戚、縁者に面子がなくなるので
絶対結婚を認めない、と強く言われました。
その時に妻は、それなら親兄弟、親戚、縁者達から勘当される前に
全ての縁を自ら切り、家出する!と言いだしました。
そこまで言い切るなら、と結婚する事に腹を決めました。

回教徒は、回教徒の方式で政府に届け出て結婚式を挙げるのですが、
妻の友人達も異教徒との結婚になるので誰も仲人、見届け人、
保証人になってくれませんでした。
仕方なく、オーチャードロードで、赤の他人を
「$50支払うので2時間程度付き合って貰えませんか?」と
説得して、とりあえずウィットネス(立会人)になってもらいました。
結婚届けを出した後、大雨が降り、近くのCOFFEHOUSEで
暖かいコーヒーとケーキを食べました。
結婚式は挙げず、皆に祝福もされない惨めな儀式で、
ツーショットの写真も有りません。

此の頃、社員や友人の結婚式に出ますが、いつもケーキカットや
親、友人に挨拶時には、昔を思い出し一人で大きな涙を
流し続けています。

2007年08月18日

深酒を控える此の頃・・・

貧疎な結婚式、と言うより結婚登録をした6ヵ月後に
長男が生まれました。

翌日、日本大使館に出生届を出しに行きましたが、あまりに長く
窓口で待たされたので文句を言うと担当者は、「この出生届は、
受理出来ません」と言いました。
せっかく日本男児として育てようと思っているのに大使館で
受理してもらえないと国籍はどうなるの?名前はどうするの?と
頭が混乱してしまいました。SINGAPOREの病院で発行された
出産証明書もあるのに?父親は日本人なのに?と
考えられる事を全て言いました。
するとその担当者は、「色々と調査したのですが、大使館に結婚届が
出ていませんので、あなた方は戸籍上、未婚です。
結婚届も出していない人が、出生届を出しに来るのは
前代未聞ですねぇ~」と笑いながら言ました。
仕方ないので直ぐに家に帰り再度書類を整え、まず結婚届を提出し、
その翌日に出生届を出しました。
 
長男の名前は、午年に生まれてので飛ぶ雄大な馬、飛雄馬と命名
しました。オレの名前、幹雄から「雄」を入れたのですが、
それが無ければ『巨人の星』の星 飛馬と同じ名前です。
オレが小学生の頃は、『巨人の星』の漫画本を買える金が無かったので
立ち読みばかりでしたが、赤貧の星家と森家をダブらせて
読んでいました。
そして、飛雄馬が生まれた時に、オレはすっかりスパルタの父、
森(星) 一徹になりきっていました。

それから次男、三男、四男まで全ての名前に「雄」の一字を入れて
命名しました。玲雄那、真理雄、雄宇樹という様に!
次々と4人の男の子が生まれたので、どうしても次は女の子が
欲しくなりました。5人目でやっと!?待望の娘が生まれました。
さすがに女の子なので「雄」の一字を入れるのを躊躇しました。
そこで、待望の愛娘を産んでくれた妻への感謝と、そして
その勲章を・・・と思い、妻の名前のサミナにちなんだ発音の
「マリナ」と決めたわけです。漢字では、茉莉奈としました。
 
長男は今年の10月で29歳、末っ子の娘は19歳ですが、皆、
今のところ結婚話はありません。いったい何時、
孫の名前を命名しなければならない日が来るか分からないので、
深酒を控える此の頃です・・・。

2007年09月06日

常に真剣勝負(教育編)

5人の子供は、ルーツの無い浮き草のような人間に
育てたくない為、また日本人として育てる為に
小学校、中学校とも日本人学校で教育を受けさせました。

長男、次男の時代には、まだ日本人幼稚園がなく地元の幼稚園に
通っていました。当時、オレが朝早くから夜遅くまで
働いていたので十二分に日本語を教える事が出来ませんでした。
子供と妻との会話は、全て英語なので悪さをした時に
子供を叱る際、オレの発音の悪い英語で叱っても効果が無い、
という事と、微妙なニュアンス(関西弁で「お前はアホか?」
と言う表現を英語にすると全く別の意味になる感じ)を表現
出来ない事も日本語で育てようとした理由です。
 
5人の子供は、すくすくと育ちましたが、どうしても
純粋な日本人ではない為、色々なトラブル、問題も起こし、
学校から呼び出しがよく有りました。
いつも先生は、俺の子供の欠点ばかり指摘してお父さんも
ビジネスで忙しいでしょうがしっかりと指導して下さい、
と言われていました。
 
1,2回目はハイ、そうさせて戴きます、ご迷惑をお掛けしました
と謝っていました。しかし3回目となるとオレも頭にきて
『子供の欠点は、オレのDNAを引きずっているので先生に
言われなくてもわかっている、親のオレとしては、高い授業料を
払っているのだから子供の欠点を指摘するのではなく、
子供の長所、優れている所、可能性を見つけて欲しい、
それが先生の仕事ではないのか?』と噛付いていました。
これを子供の目の前で先生に対して言うので子供としては
親父に愛情を感じ無いはずがありません。

教育は、常に真剣勝負です。

(お陰さまで50回目の投稿となりました。まだまだお話しする事は
ありますのでご期待下さい。目指せ100回!)

2007年09月13日

弁当

5人も子供を持っていると、
「色々と大変でしょう?」「お金も掛かるでしょう?」等々、
よく言われますが、子育てでなんといっても一番辛かったのは
毎朝子供の弁当を作ることでした。

当地の日本人学校は、私立(大使館の元に日本人会が運営)なので
給食制度がありません。

子供達は、日本人小学校1年生から日本人中学3年生まで
弁当生活でした。10年間で子供5人が生まれていますので
毎日が弁当との格闘です。
最初は、マレー人の妻が、本屋から取り寄せた『お弁当の作り方』
等を参考に“創って”(殆ど創作なので…)いました。
ご飯は、当地で販売されているカレー料理に合うパサパサした
タイ米を使っていたので昼頃になるとパサパサの米が、
更にパサパサになり、到底お箸では、食べれれない状態の
ご飯になっていました。
そんなご飯を周りの子供からからかわれたりしていたようでした。

ある日、カバンの中にある弁当箱をみたら、全く手付かずでした。
何故食べないのかと聞くと黙っていました。
そんな事が再三再四あったので子供に聞くと弁当でからかわれるので
食べないと……。その事をマレー人の妻に言うとご飯が嫌なら
明日からパスタ、と変な方向に行ってしまいました。
翌日の弁当は、弁当箱全部にスパゲッティー、でこれまた子供達は、
開けて瞬間に弁当箱を閉じたようです。

母親が一生懸命創ってくれるのは解っているので学校から帰ってきて
直ぐするのは、家の前のゴミ箱に弁当を毎日捨てる事でした。
夫としては、妻の気持ちもわかる、父親として子供の気持ちもわかる。
という事で、最終解決策は、オレが毎日弁当を作る事となりました。
米国で学生時代に住み込み女中(男)紛い的な事はしていたので
料理には自信がありました。
ゆで卵も、ウインナーもただ単に切らずに色々な形を作りました。
ご飯は勿論、日本のお米と同じオーストラリア米を使い、
上に海苔やふりかけ、胡麻で言葉や絵も描きました。
接待で幾ら遅く帰っても、仕事で疲れていようとも毎朝6時には、
眼をこすりながら起きて弁当を作りました。

弁当の無い水曜日と土曜日は、本当に嬉しい日でしたが、
日曜日は、スーパーで来週の弁当のおかずを考えながら
買い物するので憂鬱な日でした。
しかし、空の弁当箱を見る事で又、嬉しく、励みになりました。

でも時々手抜きをした日は、家の前のゴミ箱を開けて
見たりもしましたが…。
5人の子供は、オレの弁当で育たと自負していますが、
実は子供のほうが上手でオレがうまく煽て挙げらていたかも
知れません。

2007年11月09日

世界の人口の5人に1人

ムスリムの人口は、世界で11億人から12億人。世界の人口の5人に
1人は、ムスリムで、世界で二番目の大きな人口を抱える宗教です。
その内、発祥の地中近東諸国の人口は、全体の20%程度、
日本では約5万人程度と言われています。
英国では、既に第二の信者数を誇っており、フランスにも
300万人の信者がいますので近々、米国でも信者数が、
第二番目になる日も有るかも知れません。
石油資源に恵まれた国、またこれからが期待される発展途上国が
多いのでムスリム社会を無視する事は、世界の経済、政治から見て
不可能な事です。

只、9.11同時多発テロ事件以来イスラムは危険な宗教、テロ集団と
思われてしまっています。
ジハード『聖なる戦い』は、昔の日本軍隊の神風特攻隊を真似たのでは
ないかと思ってしまいますが、ムスリムでは、現世の罪は最後の審判を
経て良い来世に行けると思う事が多いので、今が苦しくても、問題が
あっても死んだ後は、良い世界が待っていると信じています。
独断ですが、向学心が無い、勤勉ではないと言われる事情は
こんな事から来ているかも知れません。

こんなお話も・・・。
ある日の午後、椰子の木の下で昼寝をしているムスリム信者が
居ました。その横を通った他の宗教の者が、『皆、朝から晩まで
一生懸命には働いて居るのに君は何故昼間から木陰で
寝ているのかと?』強い口調で問いただしました。
するとムスリム信者は、
『貴方こそ何故朝から晩まで汗水たらして働いているのか?』と
問い返しました。
そこで最初に質問をした他宗教の人物は、
『一生懸命働いて働いて金を稼げば、昼間からぶらぶら、
昼寝も出来るからと・・・。』と答えました。
そこですかさずムスリムの信者も答えました。
『今、俺は、君の夢と同じ事をしているのだ』

2007年11月21日

ムスリム教徒の割礼儀式

banner_02.gif
もう一つ驚いた事は、ムスリム教徒の割礼儀式
(男性の包茎手術)です。

割礼と聞いただけで『野蛮』と思いましたが、現代医学では、割礼した
男性は、HIV陽性率,エイズの感染率が包茎の、仮性包茎の男性より大幅に低いと報告されていますしアメリカ人の60%(ユダヤ教徒も割礼
しなければなりません)は割礼をしているレポートもあります。

割礼すると包皮の内側に恥垢や細菌、ウイルスが溜まらず皮膚疾患を
起こし難いのです。更に亀頭が、露出しているのでペニスの成長を
妨げる事も無くさらに鈍感になります。三こすり半にならないので
SEXにも大きな効果があります。

長男、次男は、生後間もない時に割礼をしましたが、三男は、小学生の
夏休みの時に成人の仲間入りの儀式としてイスラム儀式に準じて手術をしました。日本もその昔には、子供から大人への儀式で上下の歯を
抜いたりしましたし、アフリカなどでは、刺青、耳たぶ切除、舌に板を
入れたりしています。

自宅に大勢の親戚、縁者が集まり、お祈りを挙げた後、麻酔ではなく、
大量の痛み止めの薬を飲まされ、(麻酔をすると医療行為となる為)
割り箸のような二本の木に包皮を挟み、病院で使う様な綺麗なナイフではなく台所にある様なナイフで包皮を切られ、その後ヨードチンキを塗られ包帯もせずに完了しました。

子供達の小学生の頃は、水泳の授業で水着に着替える時に皆から
からかわれていましたが、中学生にもなると今度は他の生徒から
大人として扱られて、自慢の一本を誇っていたようです。

おそらく今でも????
banner_02.gif

2008年02月07日

死の体験(成功する為の3つの秘訣、法則 その3-1)

banner_02.gif pnet.jpg ←お気に召したらクリックを!

成功の第三の秘訣は・・・。

前回記事をアップしてから、1ヶ月以上も経っても今回の記事を
書けなかったのには理由があります。

今でもあんなに辛い思いをした事が無かったからです。

その理由は、死の体験です。

真の成功者は、間違いなく必ず一度は、死の体験をしています。

心臓が脳が停止するという事は、どんな意味をもっているのか?
生きているという事は、何を意味しているのか?
人間は何のために生き、何のために生存しているのか?
広い宇宙の中の一生物として、今まで何をしてきて、
何を残そうとしているのか?

哲学、宗教に問いかけて回答が出ないこともあります。

何時かは、人間は死ぬのであって、裸で生まれ、裸で死んで行く。
金も物も墓場まで持ち込めないのなら何を残していくのか?

心の葛藤を行い、無になり、大自然の掟に従うと思わなければ、
人生、そしてビジネスの真の成功はあり得ません。
 
オレは、今まで二度本当に死ぬと思った事があります。

一度は、交通事故でした。

banner_02.gif pnet.jpg ←お気に召したらクリックを!

オレ自身の大交通事故

banner_02.gif pnet.jpg ←お気に召したらクリックを!

大交通事故は、まだ、子供が2人しかいない頃で、前にも書いた
社員の独立や持ち逃げ、さらに片腕の社員の交通事故死、
3億円の裁判沙汰と此れでもかという位に撃ちのめされた後、
心気一転一生懸命頑張っていた時です。

1月早々にマレーシアのペナンに