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回顧録 アーカイブ

2007年03月24日

波乱万丈

「今まで波乱万丈の人生を過ごして居らっしゃいますね」と
良く言われるのですが、本人は、そんなに波乱万丈とは
思っていません。

人より多少、大波、小波と落差のある波を受けているのは
間違いありませんが。。。そう思えるのも幼年期に他人より苦労
(今から考えると有難い試練)をしたからだと思います。
お陰で 早くからビジネスを体で覚える事が出来ました。

家が代々婿養子を貰う女系の家系で父親も婿養子、絵書きの
お祖父さんもです。そんな家系でやっと跡取り長男息子の私が
生まれた時は、母は、安堵とご先祖様に胸を張れると言ったとの事。

でも色々な問題があり、家庭は貧困状態で小学3年生の時に
母が大病し長期入院生活しました。
卵一個が、一家6人の夕食のおかず
(大きな鉢に卵を溶き、此れにメリケン粉と水、醤油を混ぜた後、
ご飯を入れかけ混ぜる)という時が多くありました。
自分の欲しい物が、全く買って貰えず、学校給食だけが
唯一の楽しみでした。

そんな中、どうしても皆のように自転車が欲しくなり
小学4年生の夏からラムネ工場で空き瓶を洗うバイトをしました。
バイトのお金は、高が知れていました。
しかしオレは、ある方法で稼ぎを増やしました。
その方法は・・・。

ラムネのビンが割れると、内にあるビー玉が出てきます。
工場のドブ掃除をして、「ビンが床にあると危ないので捨てて来ます」と
言い、このビー玉を貰って帰りました。
そしてその手に入れたビー玉を近くの子供達に売り、
お金に換えました。
廃棄処分品を手に入れ再販する事を実体験したのです。

このバイトとビー玉のお金だけでは自転車は買えないので、
くず鉄屋さんに行き、中古の自転車の部品だけを譲る受けました。
女性用の自転車、蕎麦屋の出前用の自転車、子供用、大人用、
スポーツ用と色々な部品を組み合わせブレ-キは、一つだけ、
車輪のカバーもない、サドルだけが大きい
自慢のオリジナル自転車を組み上げました。

それから天体望遠鏡が無性に欲しくなり新聞配達を5年生の時から
朝、夕刊の配達を雨が降ろうが雪が降ろうが毎日続けました。
今でこそ、朝刊は月に1回休刊日が有りますが、
昔は、子供の日とお正月だけが休刊日でした。

それ以来、親に金を渡した事は有りますが、
親から金を貰った事はありません。
 

2007年03月26日

新聞配達

小学生の頃、アルバイトで京都新聞を配達していました。
朝5時前に起き、愛車の自転車で販売店に行き、
1時間半ぐらい掛かって配達します。
週末になると商店街や不動産などの折込み広告が入ってきます。

この折込チラシを新聞の内に入れ、配達すると別途お金を貰えるので
張り切って前夜に販売店に行き、色々なチラシを一纏めにして置き、
明日の朝、新聞が到着したら、直ちに新聞の内に入れて行きます。

それ以外の収入は、拡販(朝日、読売、毎日新聞などを取っている
家庭に行き、京都新聞に変えて貰う営業)です。
この仕事は、競争が厳しく、3ヵ月契約すれば1ヵ月無料とかタオル、
洗剤をプレゼントとかあの手、この手で契約を取り合います。
スポーツ新聞も一緒に配達していましたが、デイリースポーツ新聞は、
そんな専門員を置いていませんのでプロ野球がシーズンを
終えると皆、翌春の開幕戦まで新聞を取りません。
そこで毎年春秋にキャンペーンして契約解除を防いだり新規読者を
増やしたりします。

そのキャンペーンの賞品が豪華で皆は、契約のトップ争いします。

私も賞品のペリカンの万年筆が、どうしても欲しかったので
頑張りました。結果は、なんと京都でNo.1! 万年筆どころか
1泊2日の天野橋立と温泉旅行に招待されました。
旅館に着くと綺麗な芸者さんが沢山いましたが、
小学6年生の私には関係ありません。酒も飲めず料理ばかり
食べていたいました。
舞台に呼ばれ責任者からNo.1として紹介を受けました。
『小学6年生に負ける大人の君達は。。。。』とも仰っていました。
温泉の有難味も解りませんでしたが、新聞配達を休める事だけが
嬉しかった。

京都で一番になれた理由は、
まず近くの工事現場に行き、そこで責任者と思われる人に
スポーツ新聞を取って下さいと頼みます。
すると『何故子供がそんなことをするのか?』必ず聞かれます。
すかさず『ペリカンの万年筆がどうしても欲しいので頑張っています!』結果は、即、契約です。
その後、その責任者が色々な現場にも声をかけてくれて
あっと言う間にNo.1!。
きっとこの工事現場の責任者の人も私と同じ様な子供を
故郷において来て親身になって応援してくれたと思います。

此れで営業と何か?どうしたら大口契約を取れるか?を体で覚え、
欲しいと思った物は、欲しいと思い続け努力すれば必ず何時か
自分の手に入る事も経験しました。

どうしても欲しかった天体望遠鏡は、反射型を買いましたが、
2,3回覗いただけでした。毎夜、月や星座が輝く始める頃には、
もう眠くて眠くて布団にもぐり込む日々でした。毎朝、5時前には
起きていましたので・・・。

2007年03月28日

アルバイト

新聞配達以外にしたアルバイトは、
中学2年生から高校3年生までしていた牛乳配達です。
新聞配達より楽で牛乳も飲める、そして時間に余裕があるので
転職(?)しましたが、冬に冷たい牛乳瓶を運ぶのは辛い仕事でした。


社会人になってからは、深夜喫茶店のウエーターと
英語教材の販売です。何れもアメリカに渡米し留学する為の資金を
貯める為でした。


昼間は大阪の淀屋橋に有った日立製作所に勤務し、
終業時間が来ると真っ先にエレベーターに乗り、
京阪電車の特急電車で京都まで帰り、先斗町の近くにある
深夜喫茶で26時まで働きました。

それでも資金は貯まりません。休暇を取ってブリタニカの百科事典と
英会話の教材カセットテープをセットにして販売していました。


33年前で50万円もする高価な教材でした。しかし、
若手社長、医者、先生、商社マンなどに売りまくり、
その販売会社での新人記録を更新しました。
秘訣は、まず電話でのアポとりと自ら考えたセールストークでした。


契約してもらう為の最後の決め台詞は、
『この教材で毎日30分練習すれば、3ヵ月後に外国人とスムーズに
会話が出来ますよ!!』といったオーソドックスな物ではなく、
『この教材で練習して彼女と洋画を観に行って下さい。
会場の人々は右端の字幕を見ていますが、貴方は、
映画館にいる誰よりも早く驚き、感動し、笑い、泣きますよ!
横で見ている彼女は間違いなく羨望の目で貴方を惚れ直す事、
間違いありません。保証します。。。』


人間の欲望に訴えないとヒトは高価な商品を買わない、
このアルバイトで得た教訓です。
その当時、日立製作所の給料は、1ヶ月の手取りで8万円位でした。
しかしこの英会話教材販売では、3ヶ月間で150万円を稼ぎました。

これで日立製作所を退社してアメリカに行く渡航費用と滞在費を
作り出した訳です。

2007年03月30日

漕艇部(ボート部)

海外で若輩のオレが会社を立ち上げ、SINGAPOREだけに止まらず
アジア各国に新会社、支店を開設できた大きな理由は、
幼年期の赤貧の経験とそこから脱出する為に自らアルバイトして
自活してきた事ですが、もう一つの大きな要因が、
高校時代に運動部で活躍した事です。


親父が、若い時に海外航路の船員をしており、子守歌代わりによく
海外の話を聞いていたので工業高校を卒業した後は、
海上自衛隊の学校か商船大学に行く夢を持っていました。
そんな影響で高校1年生の時に漕艇部に入部しました。
野球やサッカーは、小さい時から練習をして経験を積んでいる者達と
比べ、アルバイトに明け暮れたオレが、いまさら野球やサッカーを
しても即レギュラーには、成れないと考えていました。


このスポーツ、ボートは、湖、川、海がない所では練習が出来ません。
京都の洛陽工業高校は、今のJR、京都駅の次の駅、西大路駅の近くに
ありました。練習場所はそこから電車に乗り、滋賀県の石山駅で
下車した所の琵琶湖とその下流の瀬田川でした。
1年生の夏から先輩を差し置いて主将になり、1年生の新人戦では
京都府で優勝!2年生からインターハイ、国体と出場し3年生までに
常勝チームを作り上げました。


鬼の森と近畿地区では、言われたぐらい厳しい主将でした。
1年生の時は漕ぎ手でしたが、皆との身長、リーチ差が大きかったので、漕ぎ手を辞め、ラダーを引くコックスになりました。
ボートの上では、コックスが船長ですので全てコックスの指示に
従うのが原則です。主将で船長役のコックスをしていましたから誰も
反抗出来ない状態でした。
それだけに人の3倍勉強しました。
先輩コーチがいましたが、それほど熱心でなく、古い考え、古い方式、
根性論が全ての人だったので、効率の良い漕ぎ方、練習方法を調べる
為に近くの艇庫にある実業団や大学のボート部に教えを請う為に
何度も頭を下げました。


理論武装し陸トレも皆に負けない状態にしたのでメンバーは仕方なく
オレの言う事に反発せずついて来てくれました。
現役チームが勝ち続けるので後輩のチームも同じ様な頑張り、
私が卒業した年には、国体3位入賞するまでの成績を上げ、
更に翌年の後輩は、インターハイ2位になりロンドンのテームズ河で
行われた世界選手権にも出場できるぐらいになりました。


漕艇部に入って得たことは、
いち早くNO.ONEになりたかったらニッチな事に注目をする、
という事です。ボートに馴染んでいた青年なんて伝馬船を漕ぐ
漁師の息子ぐらいしかいませんし、伝馬船と競技用の漕艇とは
漕ぎ方が、天と地の差です。
もし野球をしていたら甲子園どころか平安高校なんかに毎年1回戦で
大負けしていたでしょう。
それとボートには、リーグ戦やトーナメント戦などは無く、
予選、準決勝、決勝と戦い続けるのですが、
予選に限り敗者復活戦があります。
誰もが失敗を経験しますが、この素晴らしい敗者復活の思想が、
今でも体の奥まで染み付いています。

2007年04月02日

学校の成績

朝からバイトをしていましたので、小学校から高校まで、
2時間目までは、机の上で睡眠をとり、
3時間目の後半で目が覚め、
4時間目で食欲を戻して昼食を食べ、
5時間目で軽く昼寝してベルの音で目を覚ます、というのが日課でした。

体育の時間だけは、飛び回っていましたが、それ以外は。。。。
勉強を全くしていなかったので進学は、
工業高校でないと無理、と担任の先生から言われていました。
勿論お金が無いので私立の高校には、行けないので。


中学3年生の後半から勉強して何とか市立の工業高校に合格しました。
高校生になっても朝のバイトは、継続していましたので
朝寝、昼寝の日課は変更なしです。


特にボート部では、主将という立場、それから
まだ一般的でなかったサーキット・トレーニングや
自家製バーベルを使い筋力トレーニングをしていた、
また滋賀県にある琵琶湖、瀬田川まで汽車に乗り移動していた、
という諸々の事情により、帰宅時間は毎日9時半位(冬季以外)でした。
休みも毎年、正月の2日だけでした。


そんなオレが、超一流企業の日立製作所に入社出来たのも
最高の内申書を書いて貰ったからです。
数学、国語、英語などの基礎科目以外の機械専門科では、
担当の先生や他の先生が、試験の前にこの辺を良く勉強しとけと
こそっと教えてくれていましたので成績は4か5でした。
恥ずかしい話、英語は全く出来ず万年、運動会の行進曲状態でした。
(掛け声で1、2、1、2、。。。)


工業高校の先生は、他の高校に異動する事も無くその高校で
退任するのが当たり前でした。
オレが、ボート部を近畿で有名にしたという事を気に入ってくれた、
と思っています。


ビジネスでも如何に応援者を多く作るかです。
真面目にこつこつと一生懸命、努力している事は、
誰かが見ていてくれます

2007年04月03日

技術の日立製作所

技術の日立製作所の入社試験は、
筆記試験と面接試験がありました。
面接試験は、筆記試験の後にあり試験日が、
丁度インターハイの試合日と重なっていました。


上位入賞を皆で狙っていたので主将兼コックスのオレが不参加では、
その夢も経たれる、と思い、面接官に事情を説明して面接日を
別の日に変更して貰いました。
入社希望者の一方的な理由で面接日を変えるのは一流企業では
有り得ませんが、当時の担当者が偶々同じ京都の出身だったので
無理を聞いてもらえました。


万一希望が叶えられなければ、他社に入社する気でいましたので
その迫力と、チームの為、学校の為、郷土の為、という心構えが
気に入られたのだと思います。
こいつは、会社の為、組織の為なら何でもすると思われたかも
知れません。


入社が決まり、配置されたのが、日立製作所、淀屋橋にある
大阪営業所でした。京都から京阪電車で自宅から90分程度
掛かりましたが、琵琶湖に通ってた事を考えると
苦にはなりませんでした。


研修期間から、リーダ的な存在で面接試験日を変更させた男として
既に知れ渡っていました。直ぐに同期会を発足させ幹事役をしました。
研修後、配置されたのが購買課です。東京の本社と大阪の購買課が、
全国にある工場から依頼され色々な資材を調達する部署でした。


課に配属された数週間後に工場に行ってどんな物を作っているのか、
更に研修が行われました。同期はまだ見習い的な仕事を
していましたが、当時の課長に気に入られ、工場廻りしてから即、
鉄鋼品の担当者になりました。当時は鉄は国家なりとの言葉を
言う人いるぐらいに基幹産業で、一流の大学を卒業した大手商社の
係長、中堅商社の課長、次長、中小メーカーの場合は、
取締役や専務が私との交渉人でした。


そんな人々に高卒の新人が、
負けるものかと張り切って仕事をしていました。

2007年04月04日

購買課

購買課には、大卒は、経済学部、高卒は、商業系の人たちばかりで
工学部や工業高校卒の課員はいませんでした。
当時の課長の言葉によると、「技術の日立製作所なのに機械や技術に
強い課員が居ないのは問題だ。そこで君を採用した。」と言う事で、
毎日張り切って仕事をしていました。

JIS規格やISO規格を覚え、メーカの技術者に色々とお教えて貰ったり、
取引先の工場見学も頻繁に行きました。
素材の知識を増やす為、鉄鋼品や非鉄金属を発注していましたが、
新金属のチタンも買っていました。軽くて強く耐食性に優れた
この金属は、化学プラントの熱交換器等に使われていました。
只、高価な為、無垢でタンクを作れない為、ダイナマイトを使い
爆発させて他の金属と張り合わせる工法や真空溶接などあり
新金属に対する知識と技術の理解力が必要で、
オレが正に適任者でした。

宇宙開発でロケットなどに使われていた貴重で高価な新金属の
チタンが、今の様にゴルフのドライバーに使われたり、
眼鏡のフレームになるなんて夢にも思っていませんでした。

あっと言う間に1年が過ぎ、2年目を向かえた時に将来を考える事件に
遭遇しました。この事件により、3年間勤めた日立製作所を退社し
21歳で米国に渡米する事になり、
さらにその後、SINGAPOREに来るきっかけにもなるとは、
チタンと同様、夢にも思いませんでした。

ところで、科学記号で鉄はFe、アルミはAl、と記載しますが、
チタンはどう表記する?

2007年04月08日

退社の理由

日立製作所を退社した理由は、3つ有ります。
1)学歴
今でこそ何処の会社も実力主義、成果配分などと言っていますが、
30年以上の前は、終身雇用、学歴主義の世界でした。
まだ若かったオレは、工業高校しか卒業していなくても将来、
天下の日立製作所の社長にはなれないかもしれないが、取締役程度は
絶対行ける!と思っていました。オレの夢を先輩達に話すと
笑い飛ばされてしまいました。
彼ら曰く、取締役どころか、大卒の“おもり”をした後、
10年もしないうちに子会社、孫会社に転属されそれでお終い。。。。
確かに周りを見廻すとそのとおりだし、先輩達と飲みに行くと
会社の愚痴と上司の悪口を延々と赤提灯の下で話している姿しか
見えませんでした。


2)派閥 それなら労働組合の幹部、書記長や組合委員長になれば、
社長と対等に話が出来る!と思い、組合活動に力を入れていました。
青婦協のトップまで行き、全国弁論大会にも中部代表として参加し、
皆から優勝や!と言われるぐらい、内容も態度もピカイチでした。
がしかし、優勝したのは、労働組合のお膝元、日立工場の人間。
そこで労働組合にも派閥があることを知りました。
組合委員長に就任、その後、電気労連の委員長、更に社会党から
出馬して国会議員へ!という夢はあっさりと消え去りました。

b1-s.jpg
3)会社というブランド
ある取引先での出来事。。。
この取引先に対しては、クレームがかさみオレの父親みたいな
年齢の専務に対して、改善がなされないので毎日大声で怒ったり
叱ったりしていました。
そして遂にオレは、
『長く取引を戴いたが、こんな事では取引を中止します』と
伝家の宝刀を抜く言葉を発しました。
それでも専務は、若輩のオレに土下座するぐらい謝りました。
その後、その専務に接待された時に、彼が酔いつぶれて発した言葉は
今でも忘れません。
『こんな若造に嫌味を言われ、暴言を吐かれ、プライドも叩かれても
我慢しているのは、仕事が欲しいから、自社の社員を食わ為。。。。』
『日立製作所の森幹雄であって、森幹雄の日立製作所では
無いないんだぞ。。。』
購買と言うポジションに甘え、有頂天になっているオレが、
その言葉で叩きのめされてしました。日立のオレ、購買課のオレ
であるから皆なペコペコし、笑顔で接してくれているが、
誰も“森幹雄個人”としてのオレに頭を下げて居るわけではありません。オレは何者?会社の名刺から日立製作所のロゴと会社名と取った
森幹雄は何者?購買課でなく反対に営業課に居たら立場は逆転?

サッカーの中田英俊よりも何十年も早く、自分探しの為、
米国に行く決意をし丸3年間お世話になった日立製作所を退社しました。

3年坊主の伝説社員

日立製作所で3年間しか働かなかったオレですが、
退社したいと辞表を上司の渡すと皆が止めてくれました。
部下が退社する旨が有る時に
それを止めるのは3つの理由があります。

1)本人が退社する事で業務が滞る場合。
誰かがその仕事を引き継ぐ必要があり、
また専門的な仕事を担当していればいるほど即、
上司や同僚に負担が掛かるので退社を遅らす、又は
次の候補が見つかるまで退社する事を止めます。
更に急に退社する部下が居ると言う事は、本人の上司が、
その上司から管理能力不足と言われてしまう、
つまり上司本人自身に罰点が付く事を嫌う、と言う要因もあります。

2)自分を肯定する場合。
退社する理由は色々とあるだろうけれども、上司である俺も辞めたい、
だけれども家族も居るし家のローンもあるし、世間体も。。。。。
退社する者を妬むと共に、未だにその会社にしがみついている自分を
肯定する場合です。その際は「ほかの会社に転職しても何処も一緒!」
と説得されます。

3)本人の事を見極めている場合。
退社しようとする部下の思いと能力をきっちり判断し、一時的な思い、
または感情で退社しようとしている場合は部下を諌めます。
退社して次の目標が定まらない状態なら必ず退社を止めます。
しかし、場合によっては本人の将来を考えて止めるどころか
応援する側に廻る事も有ります。

オレの上司や元上司に、退社してアメリカに渡り留学する事を明したら、
それは良いことだと薦め、羽田空港(まだ成田は港していませんでした)
まで元同僚達と一緒に見送りに来て頂きました。

だからオレは、今でも退社する人を押しとどめませんし、退社を理由に
条件交渉する社員は即、退社せよ!と言います。
色々な会社を渡り歩き、その度に上司が、退社を認めてくれたからこそ
今のオレが在ります。

昔の職場は、本社に統合され廃課になっておりOB会も
開催されなくなりましたが、今年オレがSINGAPORE滞在30年の節目に
なるということで、元上司が発起人となりOB会を開催してくれ、
祝ってくれました。

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たった3年間しか勤めていませんが、大勢の人に参加して戴き、
皆が一番印象に残る伝説の社員だ!と昔話に花が咲き、
嬉し涙が大量に流れ出た日でした。

2007年04月10日

憧れの男

サラリーマン生活を辞め、渡米したのも1冊の本に影響された為です。

その著者は、ロッキー・青木氏。

彼はローマ・オリンピックでレスリングに出場、 その帰路、
ニューヨークに滞在し、スラム街で、紙で作った日本傘を 付けた
アイスクリームを大ヒットさせ、その儲けで 日本食レストランを開店、
火鉢でステーキを焼く“元祖鉄板焼きステーキ”の原型を築き、BENIHANA OF TOKYOという 名前のレストランを米国だけでなく
世界中に作り、遂にはタイム誌の 表紙にまでも掲載された男の、
サクセス・ストーリーです。

この本を何百回も読み返し、こんな男になりたいと憧れ続けました。
実際、オレはアメリカで、この本に出てくる何十倍の苦労もしましたが
そんなときにも大きな支えになりました。

残念ながらアメリカに居た時には、貧乏生活で最初の1年間は
一度も日本食を口にした事はありませんでした。
勿論、一度も“ベニハナ” には行けませんでした。
滞在2年目になり、初めて食べられた日本食レストランは、
“ベニハナ”に似た名前の「紅馬車」と言う、韓国人オーナーの店で、
そこで『きつね丼』を食べた時は、涙が出ました。
当時は何時もホットドッグやハンバーガーを食べていました。
日本のモスバーガーの創業オーナーが、その味を真似た店にも
良く通っていました。

ロッキー・青木氏は、成功後スピードボートや気球に乗ったり 華やかなに過ごしましたが、離婚を何回もしてその度に慰謝料を 取られたり、
騙されて店を他人に盗られたりと波乱万丈の人生を 過ごしていました。
10年程前、バンコクで“ベニハナ”が開店した際にお目にかかった 時には肝炎を患い、オレの理想の男は、見るも無残な状態でした。

幾ら華やかな人生を送っても歳を取ってから、枯れた花のように ならない様、もっと努力をしなければ、と再認識させられました。

人間、棺桶に片足を入れた時に、俺の人生は楽しかった、面白かった、 と胸を張って言いたいと思っています。

2007年04月11日

クリスタルのベル

アメリカは、ロサンジェルスに滞在していましたが、 ダウンタウンの近くにあるエバンスアダルトスクールに 通学していました。

b03.jpg 学校が終わると直ぐ居候しているアメリカ人夫婦の家に帰り、 家の掃除、ベットメイキングと洗濯と夕食作りの世話をし、 食器を洗い、かたずけて1日が終わります。
翌日は、学校に行く前に庭に水を撒き、 朝食の準備をして学校に急いで行くのが日課でした。

始めは1部屋を借りてホームステイ、と思っていました。 しかし多少小使いが貰える、と言う事で家事のお手伝いを していましたが、次第にお金もっとり欲くなり、 女中(男中)さんのように働き始めました。 お陰で今でもシェフ顔負けのオーブン料理が出来ます。

家は、ロスを一望に出来る丘の上にあり、近くに有名な展望台や 野外演奏場があるグリヒスパークの中の高級住宅街で、 家には大きなプールもありました。
家主は、老夫婦ですので食事も簡素でドケチで黒塗りのキャデラックに 乗り、毎週新聞の折込クーポンを集めてロスのスーパーマーケットを 動き回っていました。
ガソリン代の方が割引より多い筈なのにと思いながらも 色々な所へ行く事ができるのでオレは買い物を楽しんでいました。

只、お客様が来た時の食事の準備やサーブは一番嫌な事でした。
何故かと言うとこの老夫婦は、ゲストが来ているときには用事があると 俺の名前を呼ばず、卓上ベルを鳴らします。まるで犬みたいで、 ベルが鳴るとイェッサー(Yes,Sir)、イェッスマダーム(Yes,Madam)と 言い、お伺いするのです。
悔しくてく悔しくて拳を握り締め仕事をしていました。
屈辱感から、ベルが鳴るたびに必ずベルを鳴らす立場になるぞ!と 誓いましたが、当地でメイドを雇う立場になっても一度もベルで 人を呼んだ事はありません。

その代わりにクリスタルで出来た色々なベルを100個以上集め 棚に飾っています。
それを見るたびに懐かしいアメリカ時代を思い出します。

2007年04月13日

頭の中で何かがスパーク

米国人の老夫婦に同居しアメリカの生活を身体で体験しましたが、
奴隷のような扱いと勉強より米国でビジネスを勉強したかったので
その家を出て、ハリウッドの近くにアパートを借り、
仕事を探しました。しかし、簡単には見つかりませんでした。

理由は簡単、ビジネス英会話力がまだ付いていなかった為です。
それで毎午後からサンセットブルバードにあるバーに行き、
カウンターに座り、いつもビールをちびりちびり飲みながら
そこにいる女性のバーテンダーと会話していました。

お酒の力を借り英語をしゃべる恥ずかしさを消し、又、舌の回転も
よくなると思い毎午後通うと此方はお客ですので彼女も時間つぶしに
会話してくれました。

ある時、追加オーダーしていないのにビールが運ばれてきました。
まだ頼んでいないよ!と言うと『THIS IS ON THE HOUSE』と言われ、
彼女は、目をウインクしました。
最初はこの意味が全く解りませんでしたが、
何となく私のおごりよ!。。。と言っているのが解りました。
それまで日本語を英語に、英語を日本語に置き換えて話していたのが
その時から頭の中で何かがスパークして、
今までとは違う頭脳回路が、出来ました。

学校では習わない生きた会話が、その日から出来始め、
英会話が楽しくなり、コンプレックスもなくなりました。
お陰でその後、ロスのダウンタウンに有る某航空会社系の
旅行会社に入社することが出来ました。

2007年04月18日

憧れ!オーストラリア

VISAの問題でアメリカを離れ、日本に戻ってきました。
1年半程度の滞在でしたが、海外でも生活できる自信は何とか
付きました。

帰国後、インドレストランの支配人になった事は、既に書きましたが、
毎日ビルの地下で朝から深夜まで働いていたのでどうしても又、
海外に行きたくなりました。

その思いで、今、SINGAPOREに30年間も滞在しています。
よく何故、SINGAPOREを選ればれたのですか?と聞かれますが、
『世界地図を広げ、ロジスティク的に考えたり此れから発展する
地域、国を考え、当地を選びました。。。』と
回答するようにしています。
すると「先見の目がありますね。。。流石ですね。。。」と
言われるのですが、実は、単純にUSAみたいな大きな国、
AUSTRALIAに行きたかったのです。

只、その比は、まだオーストラリアは、白豪主義が残っており
日本人と言えどもVISAの問題など厳しい扱いでしたので
とりあえずユニオンジャックの国、英国の元植民地であるなら、
単純に数年居る内にオーストラリアに行ける情報も手に入ると
思い当地を選びました。

毎日毎日、英字新聞を目をこらしながら見ていたら
SINGAPOREで求人広告を発見!即応募しました。
日本にも関連会社があるのでそこで面接を受けましたが、
採用、不採用の通知が1ヶ月にも経っても返事がありませんでした。
そこでその関連会社に電話すると不採用の通知を
面接した日に送っていますと冷酷に言われました。

その3ヵ月後に別の方法で、SINGAPOREに来る事が出来ました。
オレは強運だ!とそのとき本当に思いました。

2007年04月27日

補欠の補欠の補欠

SINGAOREの会社面接が、不採用になったと書きましたが、
不採用の通知も届かない会社だったので、日本支社に文句の電話を
入れましたが、ケンもホロホロに君が採用される訳は訳無いだろ。。。
とまで言われました。

しかし3ヵ月後にオーナのアメリカ人が日本に来ているので
再度面接したいと電話がありました。事務所に行くと英語のテストを
又やらされ色々な意地悪な質問をされた後に
『君は、海外で仕事する気が本当に有るのか?』と質問されました。
此の質問には、頭に来て『そもそも3ヶ月前に面接を受け、
採用、不採用の通知も出さずにこちらから問い合わせして初めて
不採用が判明し捨て台詞をされ今回再度面接を受けさせられ、
英語のテストも受け。。。。此れだけの事をしているのは
海外で働きたい一心だ!良くそんな質問できるな?』とアメリカ人の
社長にふざけるなとくってかかったところ、即採用となりました。
彼曰く、『日本人は感情を余りださないしディベートが出来ない人が
多いけど君は違う』と言われました。

それから研修期間も無く、即SINGAPOREに赴任せよとの条件で、
1週間で身辺処理をして羽田から再び海外に飛び立ちました。

この出発前日に他の社員から聞いたのですが、
3ヶ月前に採用した人は、研修期間中に家族の反対で
海外に行けなくなり退社、もう一人の採用した人も途中で病気になり
退社、3番目の候補は既に他社に採用されていた、
と言う事でもう一度新聞広告を出して募集する準備をしていたところ、
不採用としたけど変わった面白い人間がいると誰かが気が付き、
君を再度面接したとの事。

君は補欠の補欠の更に低い補欠候補だったので皆は君の事は
そんなに期待していないので体を壊さないように。。。

この言葉を聴いて頭が真っ白になりましたが、
今に見てろ!オレを採用した事がどれほど会社に貢献したか
見せてやると心に誓いました。

それにしても補欠の補欠、最低な補欠のオレですが、
強運が人一倍ある事を今も信じています。

2007年06月19日

小さな便箋3枚

banner_02.gif ←お気に召したらクリックを!

b06.gif 日本語FM放送開局については、一冊の本が書けるぐらい、
数々のエピソードがあります。

又、辛い経験、楽しい経験等、今までに無い色々な事を
この放送ビジネスを通じて経験しました。

海外で万一天災に遭遇した時、どう対処したら良いか?など
日常生活でも考えていましたが、神戸の大地震の7日後に
神戸事務所の応援で神戸に行った時には、身の毛の振るえが続き、
恐怖感に溢れ、涙が止まりませんでした。
日本語が通じる日本でさえ、大災害の時は、どうしようもないのに
海外で、まして日本語が通じない場所で万一、
災害と遭遇したら・・・。

当地に日本語放送があれば、災害、惨事のような緊急事態時に
何かの役にたち、その後もライフラインのケアーも出来ると思いました。
でも外国人に放送枠を渡す事は、何処の国でも難しい事は、
理解していました。しかし誰かがやらないと・・・。
そんな時に、通信情報大臣のジョージ・ヨー大臣と知り合う事が出来、
彼の部下にラジオ放送を是非開局させて欲しいと強く訴えました。

その後、INTRENATIONAL CHANNEL(日本語、フランス語、ドイツ語の
3ヵ国語)が開局される事になり、諸手を挙げて参加しました。
1社の放送を独占させるのは、良くないと横槍も入り、
1998年10月12日に2社(その後他社は退散)で
日本語FM放送を東南アジアで初めて10KWの出力の電波を
飛ばしました。
最初は、2時間程度の放送が、朝2,5時間、夕方2,5時間、
夜3時間の毎日休み無く、合計8時間も放送していました。

全くの素人が、放送番組を作り、放送したので大きな苦労
(放送“ジングル”の意味が解らずクりスマスのジングルとの
勘違いなどや、SINGAPORE政府の手配でTBS、文化放送の局長と
ラジオ放送はどうあるべきか、の激論等々・・・。)は
ありましたが、今から考えると皆楽しい事ばかりです。
b07.gif
でもお陰で大きな投資となり、家が2,3軒買えるぐらいまで
金を注ぎ込みました。それは未だに回収出来ていません。
これからも日本語放送でお金を儲けるのは不可能です。

でもお金では買えない、オレの今まで生きてきた人生の証と勲章を
手に入れました。

“勲章”と言っても政府機関が授与する物ではなく、
たった小さな便箋3枚に書かれた手紙です。

2007年07月03日

手紙

オレの人生で最高の勲章は、FM放送のリスナーから戴いた手紙です。
番組内で、ある日本人女性にプレゼントが当選しました。しかし
当選したデジカメは、受け取れない、という連絡を受けました。
その理由を尋ねると『商品以上の物を貰ったから…』との事。
後日、彼女から手紙が届きました。

親の反対を押し切り、シンガポール人の男性と結婚、
子供も授かったが、ご主人の失業等で家庭は崩壊寸前状態が続く。
しかし親に相談も出来ず、友人・知人も無く、苦労に苦労を
重ねられていました。

唯一の心の支えは、我々が放送をしている
HELLO SINGAPORE FM96.3。
毎日、DJのトークが彼女を励まし、大好きな日本の音楽を
リクエストする事で気持ちをリフレッシュされていたようです。

しかし生活がどうにも上手くいかず、娘を抱いて公団住宅から
飛び降り自殺を考えた時、彼女の母が大好きな美空ひばりの曲が、
ラジオから流れたのです。
既にそのとき亡っていた両親のお陰で今の私が居るのに、
私は愛娘と一緒に命を絶とうとしている……、出来る事から、
少しでも良いからして一歩一歩前に行こう、と自殺を思い止めたのです。
 
『私の人生に新しい光、そして心の落ち着く場所をくれたDJの皆さん
そしてJ-PLUS、COMMの皆さん、本当にありがとうございます。
これからも皆さんを心から応援していますので、体に気をつけて
ステキな番組作りにがんばってください』と手紙の最後に
書いてありました。
 
一曲の音楽で尊い二人の命が救えた!
手紙を読み終え、人目をはばからず涙、涙で泣き尽くしました。

FM放送を開始してから多額の金を次ぎ込みました。
しかしラジオ放送していて本当に良かった、と思った最高の日でした。
また改めて音楽の力、素晴らしさに感動し、今まで長年お世話に
なった東南アジアの日本人社会に奉仕、貢献という意味合いからも、
出来る限りの努力をして放送を続けよう、と思った日でもありました。

2007年07月11日

オレまでメールをくれ

今回、ブログを書き始め、改めて、オレは本当に色々なジャンルの
ビジネスを懲りもせずに手掛けてきたんだなぁ~、と思いました。
 
それと同時にアジア各国にも支店を数多く創設し続け、
海外ネットワークでは、何処にも負けないぐらいになりました。
 
まず1980年に拠点のSINGAPOREに会社を設立しました。
そして初の海外支店を1984年にMALAYSIAの首都、
KUALA LUMPUR、1989年に同じくMALAYSIAのPENANGに
設立しました。
 
1992年にTHAILANDの首都、BANGKOKに設立し、
1994年には、MALAYSIAの第二の都市、
SINGAPOREの裏庭的なJOHOR BAHRUに、
更に1996年には、INDONESIAの首都、JAKARTAに設立しました。

翌年、1997年には、MALAYSIAの歴史的都市、MALACCA、
1998年には、香港に設立しました。
 
21世紀になり、2001年にINDONESIAの第二の都市、SURABAYAに
設立、2002年には、中国、上海に遅れせばながら進出しました。
 
そしてとうとうSINGAPOREにたどり着いてから27年目にして
日本、東京に会社を設立しました。
この時は、黒船に乗船し、日本に逆上陸して
日本の真のグローバル化ため、そのマインドを開国させようと
考えていました。
 
その後2005年に中国の首都、北京に作り、翌年2006年には
大連支店をオープンしました。
 
今後、2007年中には、ベトナム、2010年までには、
眠れる大国から目覚めたインドに進出(既に会社は登記済み)を
計画しています。

今後まだまだアジア地区に会社を設立していく予定です。
会社を創ることは出来ても、それを動かしてゆくのは“人”です。
ますます優秀な人材、パートナーが必要です。
アジアに於いてこれだけのビジネスの多角化と海外支店網を持つ
企業は無いと自負しています。

どう?この舞台で自分を演じないか?
我と思わん者は、オレまでメール(mori@comm.com.sg)をくれ!

2007年08月07日

アジアの時代

アジアの時代と言われて久しいですが、外務省の最新情報、
と言っても、2006年10月1日の統計ですが・・・。

世界中に長期滞在する日本人の数は、北米のそれを抜いて
初めてアジアが世界一になりました。
北米は、26万3756人。アジアは、26万7064人で地域別で
首位に躍り出ました。

都市別では、ニューヨークの4万8439人。上海が4万3960人。
ですが、上海は、単身赴任者や若年の駐在員が多い為、在留届けを
出す人が少ないのと統計されたのは、昨年なので今の伸び率から
考えれば、世界中で日本人が一番多く住んで居る事になります。
海外引越や日本語のメディヤを生業にしているオレ達にとっては、
日本人の数が増加する事は、市場規模が大きくなる事なので
嬉しい限りです。

ロングステイーや留学生の事を考えれば、更にアジアにもっと日本人が
住む事になると思います。
更に北南米に見られるような、日本人二世達が、
此れからどんどん増え、力をつけて来るのは間違いないので
真のアジアの時代はこの日本人社会の二世、三世達が築くと
確信しています。

今、力と知恵が円熟して来たアジアに30年も滞在し、ビジネスが出来、
更に大きなチャンスが到来する時を迎え、オレはつくずくなんと
強運に恵まれた男なんだな、と思います。

2007年08月15日

家族

a11.jpg
今まであまり触れてない家族
(妻、4人の息子と末っ子の長女、猫3匹)を紹介します。

妻は、一つ年下のSINGAPORE国籍、マレー人です。
(妻の事は3月19日の“会社の危機”に出てきています)
日系の大手造船所で購買部長の秘書をしていました。
この造船所には80名程度の日本人社員が働いて
仕事ほしさに毎日通っていました。

部長には、事前にアポを取っていないと会えないので
チョコレートやお菓子を持って日参している内に接待して
食事をしたり、映画を見たりしている内に。。。

今で言う、できちゃった婚で、妻の両親に事情を説明すると
回教徒以外の異教徒とは、親戚、縁者に面子がなくなるので
絶対結婚を認めない、と強く言われました。
その時に妻は、それなら親兄弟、親戚、縁者達から勘当される前に
全ての縁を自ら切り、家出する!と言いだしました。
そこまで言い切るなら、と結婚する事に腹を決めました。

回教徒は、回教徒の方式で政府に届け出て結婚式を挙げるのですが、
妻の友人達も異教徒との結婚になるので誰も仲人、見届け人、
保証人になってくれませんでした。
仕方なく、オーチャードロードで、赤の他人を
「$50支払うので2時間程度付き合って貰えませんか?」と
説得して、とりあえずウィットネス(立会人)になってもらいました。
結婚届けを出した後、大雨が降り、近くのCOFFEHOUSEで
暖かいコーヒーとケーキを食べました。
結婚式は挙げず、皆に祝福もされない惨めな儀式で、
ツーショットの写真も有りません。

此の頃、社員や友人の結婚式に出ますが、いつもケーキカットや
親、友人に挨拶時には、昔を思い出し一人で大きな涙を
流し続けています。

2007年08月18日

深酒を控える此の頃・・・

貧疎な結婚式、と言うより結婚登録をした6ヵ月後に 長男が生まれました。

翌日、日本大使館に出生届を出しに行きましたが、あまりに長く 窓口で待たされたので文句を言うと担当者は、「この出生届は、 受理出来ません」と言いました。
a13.jpg せっかく日本男児として育てようと思っているのに大使館で 受理してもらえないと国籍はどうなるの?名前はどうするの?と 頭が混乱してしまいました。SINGAPOREの病院で発行された 出産証明書もあるのに?父親は日本人なのに?と 考えられる事を全て言いました。
するとその担当者は、「色々と調査したのですが、大使館に結婚届が 出ていませんので、あなた方は戸籍上、未婚です。 結婚届も出していない人が、出生届を出しに来るのは 前代未聞ですねぇ~」と笑いながら言ました。
仕方ないので直ぐに家に帰り再度書類を整え、まず結婚届を提出し、 その翌日に出生届を出しました。
 
長男の名前は、午年に生まれてので飛ぶ雄大な馬、飛雄馬と命名しました。オレの名前、幹雄から「雄」を入れたのですが、それが無ければ『巨人の星』の星 飛馬と同じ名前です。
オレが小学生の頃は、『巨人の星』の漫画本を買える金が無かったので立ち読みばかりでしたが、赤貧の星家と森家をダブらせて 読んでいました。
そして、飛雄馬が生まれた時に、オレはすっかりスパルタの父、 森(星) 一徹になりきっていました。

それから次男、三男、四男まで全ての名前に「雄」の一字を入れて 命名しました。玲雄那、真理雄、雄宇樹という様に!
次々と4人の男の子が生まれたので、どうしても次は女の子が 欲しくなりました。5人目でやっと!?待望の娘が生まれました。
さすがに女の子なので「雄」の一字を入れるのを躊躇しました。
そこで、待望の愛娘を産んでくれた妻への感謝と、そして その勲章を・・・と思い、妻の名前のサミナにちなんだ発音の 「マリナ」と決めたわけです。漢字では、茉莉奈としました。
 
長男は今年の10月で29歳、末っ子の娘は19歳ですが、皆、 今のところ結婚話はありません。いったい何時、 孫の名前を命名しなければならない日が来るか分からないので、 深酒を控える此の頃です・・・。

2007年09月06日

常に真剣勝負(教育編)

5人の子供は、ルーツの無い浮き草のような人間に
育てたくない為、また日本人として育てる為に
小学校、中学校とも日本人学校で教育を受けさせました。

長男、次男の時代には、まだ日本人幼稚園がなく地元の幼稚園に
通っていました。当時、オレが朝早くから夜遅くまで
働いていたので十二分に日本語を教える事が出来ませんでした。
子供と妻との会話は、全て英語なので悪さをした時に
子供を叱る際、オレの発音の悪い英語で叱っても効果が無い、
という事と、微妙なニュアンス(関西弁で「お前はアホか?」
と言う表現を英語にすると全く別の意味になる感じ)を表現
出来ない事も日本語で育てようとした理由です。
 
5人の子供は、すくすくと育ちましたが、どうしても
純粋な日本人ではない為、色々なトラブル、問題も起こし、
学校から呼び出しがよく有りました。
いつも先生は、俺の子供の欠点ばかり指摘してお父さんも
ビジネスで忙しいでしょうがしっかりと指導して下さい、
と言われていました。
 
1,2回目はハイ、そうさせて戴きます、ご迷惑をお掛けしました
と謝っていました。しかし3回目となるとオレも頭にきて
『子供の欠点は、オレのDNAを引きずっているので先生に
言われなくてもわかっている、親のオレとしては、高い授業料を
払っているのだから子供の欠点を指摘するのではなく、
子供の長所、優れている所、可能性を見つけて欲しい、
それが先生の仕事ではないのか?』と噛付いていました。
これを子供の目の前で先生に対して言うので子供としては
親父に愛情を感じ無いはずがありません。

教育は、常に真剣勝負です。

(お陰さまで50回目の投稿となりました。まだまだお話しする事は
ありますのでご期待下さい。目指せ100回!)

2007年09月13日

弁当

5人も子供を持っていると、
「色々と大変でしょう?」「お金も掛かるでしょう?」等々、
よく言われますが、子育てでなんといっても一番辛かったのは
毎朝子供の弁当を作ることでした。

当地の日本人学校は、私立(大使館の元に日本人会が運営)なので
給食制度がありません。

子供達は、日本人小学校1年生から日本人中学3年生まで
弁当生活でした。10年間で子供5人が生まれていますので
毎日が弁当との格闘です。
最初は、マレー人の妻が、本屋から取り寄せた『お弁当の作り方』
等を参考に“創って”(殆ど創作なので…)いました。
ご飯は、当地で販売されているカレー料理に合うパサパサした
タイ米を使っていたので昼頃になるとパサパサの米が、
更にパサパサになり、到底お箸では、食べれれない状態の
ご飯になっていました。
そんなご飯を周りの子供からからかわれたりしていたようでした。

ある日、カバンの中にある弁当箱をみたら、全く手付かずでした。
何故食べないのかと聞くと黙っていました。
そんな事が再三再四あったので子供に聞くと弁当でからかわれるので
食べないと……。その事をマレー人の妻に言うとご飯が嫌なら
明日からパスタ、と変な方向に行ってしまいました。
翌日の弁当は、弁当箱全部にスパゲッティー、でこれまた子供達は、
開けて瞬間に弁当箱を閉じたようです。

母親が一生懸命創ってくれるのは解っているので学校から帰ってきて
直ぐするのは、家の前のゴミ箱に弁当を毎日捨てる事でした。
夫としては、妻の気持ちもわかる、父親として子供の気持ちもわかる。
という事で、最終解決策は、オレが毎日弁当を作る事となりました。
米国で学生時代に住み込み女中(男)紛い的な事はしていたので
料理には自信がありました。
ゆで卵も、ウインナーもただ単に切らずに色々な形を作りました。
ご飯は勿論、日本のお米と同じオーストラリア米を使い、
上に海苔やふりかけ、胡麻で言葉や絵も描きました。
接待で幾ら遅く帰っても、仕事で疲れていようとも毎朝6時には、
眼をこすりながら起きて弁当を作りました。

弁当の無い水曜日と土曜日は、本当に嬉しい日でしたが、
日曜日は、スーパーで来週の弁当のおかずを考えながら
買い物するので憂鬱な日でした。
しかし、空の弁当箱を見る事で又、嬉しく、励みになりました。

でも時々手抜きをした日は、家の前のゴミ箱を開けて
見たりもしましたが…。
5人の子供は、オレの弁当で育たと自負していますが、
実は子供のほうが上手でオレがうまく煽て挙げらていたかも
知れません。

2007年11月09日

世界の人口の5人に1人

ムスリムの人口は、世界で11億人から12億人。世界の人口の5人に
1人は、ムスリムで、世界で二番目の大きな人口を抱える宗教です。
その内、発祥の地中近東諸国の人口は、全体の20%程度、
日本では約5万人程度と言われています。
英国では、既に第二の信者数を誇っており、フランスにも
300万人の信者がいますので近々、米国でも信者数が、
第二番目になる日も有るかも知れません。
石油資源に恵まれた国、またこれからが期待される発展途上国が
多いのでムスリム社会を無視する事は、世界の経済、政治から見て
不可能な事です。

只、9.11同時多発テロ事件以来イスラムは危険な宗教、テロ集団と
思われてしまっています。
ジハード『聖なる戦い』は、昔の日本軍隊の神風特攻隊を真似たのでは
ないかと思ってしまいますが、ムスリムでは、現世の罪は最後の審判を
経て良い来世に行けると思う事が多いので、今が苦しくても、問題が
あっても死んだ後は、良い世界が待っていると信じています。
独断ですが、向学心が無い、勤勉ではないと言われる事情は
こんな事から来ているかも知れません。

こんなお話も・・・。
ある日の午後、椰子の木の下で昼寝をしているムスリム信者が
居ました。その横を通った他の宗教の者が、『皆、朝から晩まで
一生懸命には働いて居るのに君は何故昼間から木陰で
寝ているのかと?』強い口調で問いただしました。
するとムスリム信者は、
『貴方こそ何故朝から晩まで汗水たらして働いているのか?』と
問い返しました。
そこで最初に質問をした他宗教の人物は、
『一生懸命働いて働いて金を稼げば、昼間からぶらぶら、
昼寝も出来るからと・・・。』と答えました。
そこですかさずムスリムの信者も答えました。
『今、俺は、君の夢と同じ事をしているのだ』

2007年11月21日

ムスリム教徒の割礼儀式

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もう一つ驚いた事は、ムスリム教徒の割礼儀式
(男性の包茎手術)です。

割礼と聞いただけで『野蛮』と思いましたが、現代医学では、割礼した
男性は、HIV陽性率,エイズの感染率が包茎の、仮性包茎の男性より大幅に低いと報告されていますしアメリカ人の60%(ユダヤ教徒も割礼
しなければなりません)は割礼をしているレポートもあります。

割礼すると包皮の内側に恥垢や細菌、ウイルスが溜まらず皮膚疾患を
起こし難いのです。更に亀頭が、露出しているのでペニスの成長を
妨げる事も無くさらに鈍感になります。三こすり半にならないので
SEXにも大きな効果があります。

長男、次男は、生後間もない時に割礼をしましたが、三男は、小学生の
夏休みの時に成人の仲間入りの儀式としてイスラム儀式に準じて手術をしました。日本もその昔には、子供から大人への儀式で上下の歯を
抜いたりしましたし、アフリカなどでは、刺青、耳たぶ切除、舌に板を
入れたりしています。

自宅に大勢の親戚、縁者が集まり、お祈りを挙げた後、麻酔ではなく、
大量の痛み止めの薬を飲まされ、(麻酔をすると医療行為となる為)
割り箸のような二本の木に包皮を挟み、病院で使う様な綺麗なナイフではなく台所にある様なナイフで包皮を切られ、その後ヨードチンキを塗られ包帯もせずに完了しました。

子供達の小学生の頃は、水泳の授業で水着に着替える時に皆から
からかわれていましたが、中学生にもなると今度は他の生徒から
大人として扱られて、自慢の一本を誇っていたようです。

おそらく今でも????
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2008年02月07日

死の体験(成功する為の3つの秘訣、法則 その3-1)

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成功の第三の秘訣は・・・。

前回記事をアップしてから、1ヶ月以上も経っても今回の記事を
書けなかったのには理由があります。

今でもあんなに辛い思いをした事が無かったからです。

その理由は、死の体験です。

真の成功者は、間違いなく必ず一度は、死の体験をしています。

心臓が脳が停止するという事は、どんな意味をもっているのか?
生きているという事は、何を意味しているのか?
人間は何のために生き、何のために生存しているのか?
広い宇宙の中の一生物として、今まで何をしてきて、
何を残そうとしているのか?

哲学、宗教に問いかけて回答が出ないこともあります。

何時かは、人間は死ぬのであって、裸で生まれ、裸で死んで行く。
金も物も墓場まで持ち込めないのなら何を残していくのか?

心の葛藤を行い、無になり、大自然の掟に従うと思わなければ、
人生、そしてビジネスの真の成功はあり得ません。
 
オレは、今まで二度本当に死ぬと思った事があります。

一度は、交通事故でした。

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オレ自身の大交通事故

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大交通事故は、まだ、子供が2人しかいない頃で、前にも書いた
社員の独立や持ち逃げ、さらに片腕の社員の交通事故死、
3億円の裁判沙汰と此れでもかという位に撃ちのめされた後、
心気一転一生懸命頑張っていた時です。

1月早々にマレーシアのペナンに早朝に到着せねばならなくなり
飛行機のスケジュールの関係上シンガポールから車で
クアラルンプールに行き、そこから飛行機でペナンに向かう事に
しました。

新車のアウディ100CDに乗り出発、ところが忘れ物に気が付き
家に戻りました。しかし妻は、旅行の途中に戻るのは、マレーの
言い伝えで縁起が悪い、ということで家に入れてくれず、窓越しに忘れ物を
受け取りました。

この『縁起が悪い』の一言が、悪魔の交通事故に繋がるとは全く
予想できず、演歌を聴きながら夜のハイウエーをすっ飛ばしていました。

マレーシアの道路事情は、今のような高速道路ではなく、
2車線だけの一般道で、カーブも多く、街灯もなく、真っ暗闇の中、
全ての車が130KM以上のスピードで走っている、という状況でした。

丁度、シンガポールとクアラルンプールと中間地点で、右側から急に
何かが飛び出したので避けようと、ハンドルをきったらそのまま
スキップしてしまいました。

その先に橋がありましたが、橋を渡らず空中走行してそのまま
向こう側のコンクリート壁に直撃してしまいました。
そしてそのまま河の中に沈んで行きました。

空中走行している時に、『あ~これでオレの人生も此れまで』と
思いました。その瞬間、走馬灯の様に今までのオレの人生が高い
解像度状態でフラッシュバックして来ました。

母親も顔も見ましたし、長いようで短い時間でした。

その後、意識を失い、河の水が、車体に入ってきて意識を
回復しましたが、逃げるに逃げられずの状態でしたが、
火事場の馬鹿力、生きたいと言う願望の力で車から脱出し
崖を登りました。その時に足に切り傷が出来たのが唯一の負傷でした。

道路に出ても車の量が少なく誰も停車してくれず、仕方なく
とぼとぼと歩いて近くに町まで行き、民家を見つけやっと警察に
連絡出来ました。

クレーン車と警察が、現場まで来て河から車を引き挙げましたが、
誰もオレがこの事故車を運転していたとは、とても想像出来ない、と
言っていました。

初めて死の直面に出会わしたお陰で自動車の運転も慎重になり
他人さんを傷つける事は、未だにありません。

しかし、日常生活の忙しさに紛れて、『死』を考える時間を忘れてしまう事が
多くなりました。

そんな中、42歳の厄を過ぎた後、又もや死の恐怖とご対面です。

それ一瞬ではなく、長く長く続く『病』でした。

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2008年02月17日

肝が据わる

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交通事故も含め、裏切りや裁判等で数々の修羅場をくぐって来ました。しかし、過去の問題の全ては、オレが原因である因果関係です。

交通事故ももっと慎重に運転していたら大事故にもなら無かったし、
裁判もオレが欲を斯きすぎた為に起こった事です。
社員から絞り取るだけ絞りとり、働かせていたら裏切者も出てきます。
最初は、運が悪い…、責任は向こう側にある…、経験も無く、
他の会社では到底雇用されない者を一人前に育ててやるのだから
摂取しても当たり前と考え、オレには多少の責任があっても…と
思っていました。

でも次々と試練が重なり修羅場を歩んで行くうちに全ての原因は、
オレにある、と心の底から思うようになりました。
悪いのは、道路事情でもなく、取引先でもなく、社員でもありません。

こうしたい、ああしたい、こうあって欲しいと思うけれども、
そんな事はオレの勝手な事情であって、他人はオレの都合に
合わせてはくれません。

数々の修羅場を創ったのは、オレ自信、と気が付き、上手く
行かないのが人生、窮地に立っても夢を忘れず、責任を他のもの、
他人に押し付けず全ての責任はオレ、オレ以外にないと考えました。
 
それ以来、問題・事故は発生せず、お陰さまでパワー全開なるも
心が穏やかなり、アジア各国に支店網を拡大出来ました。

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2008年02月20日

潰瘍性大腸炎

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さてさて病気の事ですが、
タバコを吸いすぎれば肺炎になる確率が高くなり、
アルコールを飲み過ぎると肝臓を壊す確率が高くなり、
コンドームを使わずにSEXをすればエイズに罹る確率は高くなります。

これも因果関係ですし、タバコを吸う人、お酒を飲む人、売春婦と・・・、
それぞれ、そのリスクを知っています。

でも厚生省(今の厚生労働省)が認定している難病、不治の病は、
原因不明、因果関係が解らない為、根本治療方法が今現在までも
発見されていません。

この不治の病にオレは、罹ってしまいました。
病名は、潰瘍性大腸炎。
大腸を切除しても間違いなく大腸癌に進行して行きます。
難病指定患者になれば、治療費が無料になりますが、
モルモット状態になるのは、嫌で拒否しました。

最初は、血便が出て痔かなと?思いましたが便秘、下痢が交互に
繰り返しました。の後1日にトイレに5回程度行き始め、
それが10回以上になりました。

色々な検査をしましたが、判明しませんでした。その大きな理由は、
この病気に罹る人は殆どが10代後半から20代の若者で、
肉を多く食べる人、だからです。このときオレは40代後半。
あまり肉を食べないオレが罹るとは医者も思いませんでした。
欧米では、日本の患者より10倍も多いと言われているのも
肉食生活だからでしょう。

この病名を告げられた時は、頭を鉄杭ハンマーで殴られた以上に
ショックを受けました。

何で若者の病気がオレに罹るのか?オレは何をしたのか?
体に悪い事はしていなのに?堂々巡りの毎日でした。
何かの原因が必ずある筈と一生懸命調べましたが、
全く手がかりが有りませんでした。

仕方がないのでこの病気を確りと自分で受け止め、自らの力でベストを
尽くし治して行こうと決めました。

ビジネスでも人一倍上手くやったしこれぐらいの病気で
負けてたまるか!と自分自身に言い聞かせました。

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2008年02月26日

潰瘍性大腸炎2

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難病の潰瘍性大腸炎ですが、昔も今も治療方法は確立しておらず、
潰瘍を抑える薬を飲むか、免疫制御剤を服用するか、いずれにしても
症状を緩和する薬以外はありません。
症状が悪化すると副作用の大きいステロイド剤を飲むしか治療方法は
ありません。

こんな状態では、神、仏、キリスト様といわず何でも
すがるしかありません。
でも祈った処で完治する訳でもないのでまずは民間療法も含めて
色々な事を試しました。

まずは、食事療法で肉、牛乳などを摂取せずに変わりにビール酵母や
大豆蛋白を多くとりました。
腸に負担を掛けない為にもあまり植物繊維も取らないようにしました。
更にストレスを軽減する為にあらゆる事をしましたが、ストレスを
無くそうとすること事態が、ストレスを生む事が解り、
自然体で行こうと決めました。

アメリカインディアンの自然治療方法の本を読んだり、
ネットで調べたり、と色々試しましたが、
『もうええや~。短いようで長い俺の人生、今までジェット・コースター
みたいな人生だったけど、おもろかった。人が出来なかった事を沢山
したし、遣り甲斐のあるビジネスを確立したし・・・』
後は、若い者達に後進を譲ろうと決め、
病気の悪魔は、退治できないけど、悪魔と上手く付き合い、
残りの人生はなる様になると思いました。

社員に病気の事を告げ、後は確りと頼むと言ったら肩の荷が
落ちたのかすっきりとした気分になりました。

中国の漢方薬も試しながら定期検査を受けて行く内に症状が段々と
改善に向かい2年もすると西洋医学の薬の服用も医者から要らないと
言われるぐらいに回復しました。
今も全く薬は服用せず、年に1回の定期検査だけで、あれほど苦しんだ病魔は、何処かに逃げていきました。

難病ですから何故病気になったか解らず、結局完治したのも解らずじまいです。でも人生なるようになる、と開き直り、とりあえず毎日ベストを
尽くし、人生をエンジョイしようと思う事が完治した理由かも
知れません。

どんな事でも諦めず、ドン底状態ならこれ以上は落ちないと思い、
楽観的に、冬が来たら春が来ると思い、腐らず悩まず、他人のせいに
せず、愚痴をこぼす事無く、怒りを押さえ、笑顔で過ごし、
今までの生活、人生に感謝すれば必ず道は開けてきます。

オレが、出来たのだから貴方にも必ず出来ます。

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2008年03月03日

難病を克服したお陰で・・・

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生死を彷徨ったと言えば大袈裟かも知れませんが、
大きな交通事故と難病を体験し初めて生きている事の尊さを身体で
感じ取りました。

子供達やビジネスを含め次世代に繋ぎたいオレの生きた証しを
第二の故郷SINGAPORE,ASIAに残したいと強く思いました。
本を読んだり、人の話を聞いても感じる事の無い貴重で本当に
かけがいの無い経験です。

さて人生の成功する3大条件を見事にクリアーしたオレですが、難病を
克服したお陰で今まで以上に人の苦しみや痛みも心の底から
理解できたという事も嬉しいことの一つでした。
それ以外にも50歳を前に体は20歳前後の若者である事も確実に証明
でき、こんなに嬉しい事はありません。
此れからも益々体を鍛え、脳を鍛え、精神を鍛えまだまだ続くオレの
人生を楽しく、愉快に、面白く過ごして行きたいと思っています。

でもあらゆる艱難辛苦を乗り切って来たので、これから突然巡り合うかも
知れない試練がどんなものか全く想像付かない事に苛立ちも感じます。
予想が出来れば事前に対策もたてられるのに、と思いながらもドンと罹って来い艱難辛苦よ!と未だにお腹(腹筋)が六つに割れない
下腹を叩く毎日です。

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2008年03月10日

メディアからの取材

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若くして海外に行き、ビジネスを立ち上げ、小春日和もあれば
大型台風、津波、地震にも遭遇した様な人生だったので
国内外の色々なメディアから数多く取材を受けていました。

まず始めは、1987年に地元のTV局で取材を受け、その後1989年に
TV朝日で500回(週間なので10年間も!)も放送された長寿番組、
宮尾すすむの『ああ~日本の社長』、1990年にPHP出版の
『ビジネス・ボイス』に【アジアン・ドリームを実現した男】と
紹介されました。

同じ年に学研から発刊されている『ムー』、1991年には、NHKTVで
『アジア・マンスリー』に出演し、更に週刊フライデーに
【アジアの中の新日本人。アジアンドリームを実現した男】として、
掲載されました。

1995年には、週間ダイヤモンドに【職はアジアにあり!】に掲載され、
上岡龍太郎と鶴瓶の90分特別番組【世界ガンバレ日本人・人生楽あり
苦もあるスペシャル】にも出演しました。

1997年にSINGAPOREに新しく出来たTV局、チャンネルUの
45分間のビジネス、プライベートに関してのフィーチャー番組に
出演しました。
1998年に東アジア総合研究所の『月刊東アジア』に
【アジアに凄む日僑人伝説】として取り上げられ又、『月刊アジア』
では【アジアン・ドリーム、敗者復活でつかんだ商機】と
紹介されました。

単行本では、【本気で考える海外移住と事業】扶桑社、
【やはり儲かるアジアビジネス】日刊工業新聞社、
【人物研究】近代人物研究所、
そして英語版で【ADONIS YEARBOOK 92 WINNERS】や
【SINGAPORE SAVVY 50 ENTERPRENEURS OF TOMORROW】と数多くのインタービュー、取材を受けた事になります。

1999年以降、メディアの露出を無くしたのは、SINGAPOREで
日本語のFM放送、HELLO SINGAPORE FM96.3を開始し、
オレがメディアの発信側に大きくスタンスを移動した為です。

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2008年03月12日

大胆な切り口と仮説で謎の真相に迫る!【ムー】

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TVや雑誌、単行本などに取材を受けましたが、勿論、地元の新聞、
THE STRAITS TIMES、BUUSINESS TIMESを始め、
ラジオにも多く出演しました。朝日新聞、読売新聞、日経流通新聞等
にも掲載されましたが、面白かったのは学研の発行する【ムー】
掲載された時です。

最新科学・古代史・心霊・UFOから政治・経済・健康まで
大胆な切り口と仮説で謎の真相に迫る!


月刊「ムー」と言えば、「世界の謎と不思議に挑戦する」を
モットーに、1979年創刊以来、四半世紀にわたって
日本の精神世界をリードし続けてきたスーパー・ミステリー・
マガジンです。
記事で取り上げる対象は、その名に恥じず実にバラエティー豊か。
古代史ミステリー、最新科学ミステリー、心霊、UFO、魔術から
政治、経済、健康、エコロジーまで、謎あるところには、
どこにでもムーは飛び込んでいきます。
そして、常に読者があっと驚くような大胆な切り口と仮説で謎の
真相に迫りつづけています。まっすぐ見ているだけでは
見えなかった事実も、斜めや下やウラから見ると、意外な表情を
あらわにしてくれます。
最近、世の中がつまらないなあ、とお思いの方、決してそんな
ことはありません。世の中、実は謎だらけ。謎こそロマン、
謎あるところに夢があるというのが、彼らの編集姿勢です。
謎発見と謎解明のスリル、楽しさを「ムー」で存分に
味わう事ができます。

レポーター曰く、オレに守護霊が宿っている?とのことで、
UFOと一緒にされましたが、記事の内容は事実を元に多少表現が
神がかり的でした。(1990年 8月号 No.117 128ページ
【異色人物レポート】想念術で巨億の富を築いた男  筆者;藤本憲幸


2日間程、MALAYSIAのJOHORの星空と海が
綺麗なリゾートに行き、ホテルに缶積めになり取材を受けました。
ホテルのプールで寛いだ後、SINGAPOREに帰る途中にJOHORの
王様のパレスに行き、銃を持った近衛兵を横に記念写真を
取りました。
更に社屋、倉庫、引越現場の写真なども取りましたが、
いざ、出版された雑誌を見ると、なんと『休日はゆっくりと自邸の
プールで寛ぐ・・・。』のコメントと共にリゾートホテルのプールで
取ったオレの写真が掲載されていました。

更に『自邸の前で立つ・・・』のコメントには、MALAYSIAの王様の
パレスのゲートで取った写真が掲載されていました。
いつの間にかリゾートホテルのプールは、オレのプールになり、
KINGが住むパレスもオレの自邸になってしまいました。
まるで、東京駅前にある皇居やロンドンにあるバッキンガム宮殿が、
一夜にしてオレの物になった感じです。

直ちに日本のレポーターに事実と違う写真が掲載されている事に
クレームを申し立てましたが、編集時にアルバイト社員が
間違った写真を使ってしまったと言われ、既に出版されているので
どうしようもないと言われてしまいました。
どう考えても、面白おかしく誇張した方が、心霊やミステリーを好む、
ムーの読者に受けると思い、確信的に間違って写真を
掲載した様でした。

オレが、嘘をついている事になるだけでなく、万が一、MALAYSIAの
王様から、「先祖代々引き継いだの俺のパレスが、何時からお前の
物になったのか?」と言われるのが怖いやら恥ずかしいやらで、
出版されてからは、ドキドキの毎日でした。

そして、後日、そのドキドキが的中してしまったのです・・・・・・・・・。

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2008年03月14日

雑誌『ムー』掲載後の顛末・・・

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大きな庭、プール、更に宮殿まで手に入れてしまったオレですが・・・。
雑誌『ムー』が、出版されてまもなくドキドキする事が連発しました。

まず最初に驚いたのは、日本から多くの手紙が来た事。
封筒には、郵便番号も住所も全く書かれてはおらず、ただ単に
CROWN LINE SINGAPORE MIKIO MORIしか記載されていない
封筒でした。1990年の事ですのでINTERNETは、まだ普及して
おらず、また紙面には、会社の住所、電話番号などは一切
記載されていませんでした。

しかし引越で使用するトラックの写真はそこに掲載されていました。
そして、そのトラックには、側面に、宣伝の為、大きく会社の名前を
ペイントしていました。ここから会社名が判明し、SINGAPOREの
国名だけで会社まで配達されたということです。
当時日本の郵便局はまだ民営化されておらず、お役所的な
サービスしかないのにSINGAPOREの郵便局は、
住所が書かれていなくても、宛名だけでオレまで届けてくれる
素晴らしいサービスを提供してくれました。
これには大変に感心しました。

そうこうする内に郵便物が2つ、3つと増え続け、発行されてから
3ヶ月間で100通近くのレターを貰いました。
ちょっとした芸能人気分でした。100通の内、三分の一は、男性で
雑誌を読み感動した、どうしたら想念術を身につけられるのか?
道場は何処ですか?などの質問から、海外で働きたい、就職させて
欲しい、弟子にして欲しい、修行させて下さい・・・。中には寄付の
依頼や大日本紳士録に登録しましたから埋蔵金、沈没船の引き上げ
ビジネスを一緒にしましょう!などの金儲け話、胡散臭い話も多く
ありました。

残り、三分の二の女性達は、病に侵されているので想念術で奇跡の
回復したいとか、男性に騙されたので助けて欲しい等の身内の話、
相談事がほとんどでした。それ以外は是非お会いしたい、
銀座でラウンジを経営しているので日本に帰国の折には是非
お立ち寄り下さい、とか交際したい!と積極的なアプローチも
ありました。

何人かの女性は、写真まで同封されていて、一人は水着姿の写真
(ハワイに旅行に行った時の記念写真と書かれてありました。が、
それは明らかに4,5年前の写真?!)も有りました。

当時は、INTERNETやSNSが無い時代ですから、来た手紙には
お礼の手紙を書いて、プールはオレの物ではない、パレスも嘘と
白状している内に文通状態になり、とうとうSINGAPOREまで来られた
女性が数人にもなりました。

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2008年05月13日

アジア定住―11ヵ国18人の日本人

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数々のメディアに取り上げられたオレですが、
1986年発刊の野村進氏著『アジア定住』にも掲載されました。
この著書では、アジア11カ国18人が取り上げられていました。

SINGAPOREでは、オレと[女機械会社社長]が取材を受けました。
この女社長は、既に当地から他の国に移住されていますが、
取材を受けた18人のその後がどの様になっているのか、大変に興味が
あり、著者の野村進氏(大宅荘一フィクション賞受賞を始め講談社
フィクション賞、アジア太平洋賞など受賞者)に是非、同窓会的な
集まりを開催してもらえないか、と頼みました。しかし消息不明や
亡くなられた方もおられ今だ実現できていません。

その男女18人の素性です。(目次はこちらからご覧になれます。)

インドネシアでは、元落語家と、この本の表紙にもなった有名な
バリ伝統舞踊ダンサーに嫁いだ女性。
タイでは、ボクシング世界チャンピオンの妻、熱帯魚家。
マレーシアでは、元日本航空支店長の蘭の栽培家、障害児のお世話。
香港では、製本家。
カンボジヤは、戦場からの生還者。
ベトナムでは、美人歌手を持つ日本料理オーナー。
フィリピンでは、タガログ語ポップス歌手と五星ホテルマネージャー。
ブルネイでは、サルタンご用達氏。
台湾では、クラシック音楽演奏家とプロ野球選手。
そして韓国は、反日のはざま、有名百貨店長が取り上げれられました。

今、出来る限り解る範因で彼らに連絡を取っていますので近々、
ご報告できると思います。

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2008年08月28日

人との距離感

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巷では、若者、未成年者による殺人事件、凶悪事件が毎日、連夜、新聞、TVで これでもかと報道されていますが、俺の若い時代には、こんな事件は殆どありませんでした。
昔は、こんな事件を犯す者は、ヤクザや愚連隊ぐらいで 未成年、しかも15,16歳程度の人間が刃物を振り回し、両親、肉親、身も知らない他人に達に無差別的に殺人を犯す事など想像も付きませんでした。

俺は、この夏7月に起きた秋葉原無差別殺人事件にもう少しで遭遇する所でした。
事件の有った日に友人と秋葉原で 昼食を取る予定でしたが、前日、深酒してしまい翌日SINGAPOREに帰国するので 昼食の予定をその日の朝にキャンセルしました。
ホテルのベッドでまだ寝ていると その友人から トラックが友人目掛けて突っ込み、更に秋葉原の交差点で7人の人をナイフで刺していると実況報告が携帯電話にありました。

実は、俺はその前の週の夜に4人の若者達と品川の駅前で 大立ち回りをしていました。
駅前のタクシースタンドに並んでいると 後ろから酔っ払った若者が、早く行けとばかりに背中を再三再四押してきました。
日本人は、満員電車に乗りなれているせいか、人と人との距離、感覚が鈍っています。
欧米では、エレベータや電車の中でも袖が触れ合うかどうかぐらいでも必ずエクスキュウーズ ミーと謝ります。

若者に何回か注意したのが気に入らないのか、タクシーに乗り込んでいざ出発という時に1人の若者が、俺に向かって 真ん中の指を立てて「XXXX YOU」と言いました。
これには、さすがの俺も頭にきて ネクタイを外して 運転手に「ちょっと待ってて」と言い、電光石火のごとく指を立て男に 俺の右手あるダイヤが填った指輪をコメカミに埋め込めさせました。
そうしたら残りの3人が向かって来たので 1人は腹に蹴りを居れ残りの一人には胸にパンチ、更に後ろから羽交い絞めにしてきた男には左肘で コメカミに一発食らわせました。
救急車を呼ばれないように何れも鼻血などが血が出ないところばかり狙いました。
4人がへたばったころ、タクシー待ちしている人から『もうそれぐらいにしといたれ……』と言われたので、待たせたタクシーに乗り込みホテルに帰りました。
ホテルに帰ると まだ興奮しているのか酒をジャンジャンと飲みまくりました。
翌日、スーツをクリーニングに出そうと思ったらベルサーチの背広が脇と横側がベロベロに破られていました。4人掛りだったので、仕方がないと思いました。

こんな俺なので、もし秋葉原に遭遇していたら 間違いなく『ラスト侍』ごとく犯人を取り押さえるか無残にも刺されていたかも知れません。

これは、ラッキーなのかアンラッキーなのか解りません。

2008年09月26日

FM96.3開局満10周年

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今月は、日本語FM放送、HELLO SINGAPORE FM96.3の開局満10周年記念です。

1998年9月14日に試験放送を開始し 10月12日に東南アジア初で 10KWのパワーで本放送をスタートしました。
10Kワットの出力は、半径100KMまで届く出力で 隣国のMALAYSIA、INDONESIAまで 電波が届きます。
FM東京やZIPなど、日本の大手キーステーションの出力で昨今のコミッティー放送は、1Kワットも無いのが普通です。
更にインターネットで 同時放送しましたので FM東京でも出来ないネット放送をしていました。

その間に 思い出の残る数々のイベントや 何でこんなイベントと呼ぶような物まで 色々なイベントを開催しました。

開局1周年記念には、たけし事務所所属の細川ふみえ(山本モナ共々、北野たけしの愛人?)と当時婚約中の大道芸能人のブライアント ホルスを呼びカラオケ大会と大道芸能芸ショーを開催しました。
ふーみんの巨乳の一部を真近に見られ、XXられたのが良い思いです。

公開生放送では、日本人ハワイアンバンドの 『ISLAND WINDS』に出演してもらい、更にはハワイアン調のFM96.3のジングルまで作曲してもらいました。
スポーンサーの協力戴き大食いコンテストも開催し その優勝者はしゃぶしゃぶを40分で12人前(量にして1789g)たいらげました。

ビジュアル系バンド『BAROQUE』を日本から招待しライブも開催しましたが、刺青、タッーツーから体中にピアスした若者が溢れかえり異常な状態のイベントでしたが、スポーサーはSINGAPORE政府で 麻薬撲滅運動の一環でステージーでも寸劇を披露しました。
イベント終了後、打ち上げを兼ねてホッカーセンター(通常レストランには連れて行けるような服装した連中では有りません)のに行きましたが、話をしてると以外に真面目に音楽と取り組み頑張っている姿が見えました。
人を見た目だけでは、判断してはいけないと再認識した夜でした。

大物演歌歌手の吉幾三もスタジオに来て戴きインタービューもしました。
インタービュー中に 演歌でSINGAPOREを題材にした曲が無いので 何百曲と作詞、作曲されている吉幾三さんなら『お手の物、楽勝、お茶の子さいさい、チョチョイのチョイ、赤子の手を捻る様な物、朝飯前、屁の河童……』と盛上げたら、「解りました、ヨシやるぞ」とSINGAPOREのご当地ソングを作詞、作曲すると約束して戴きました。
当初は、空約束と思っていましたが、1ヵ月後に吉幾三さんからCDを送付して戴き、確かに地元ソングSINGAPOREを 自ら作詞、作曲、自演までのCDでした。
FM96.3のお宝と成りましたが、スタジオ移動時に行方不明状態です。
必ず探しだします。

吉幾三さん ごめんなさい~。

2008年09月29日

DJ土着次郎 いざ登場

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b13-s.jpg10年前にSINGAPOREで東南アジア初の日本語FM'放送を開始してから、当初番組に出たのは社長メッセージぐらいでした。しかし開局して1年目過ぎのある『土曜日の事件』以来、毎週に登場するようになりました。

『事件』というのは、土曜朝の生番組担当DJが朝寝坊してスタジオに来なかったことです。

俺も前日の金曜日に深酒していたのですが、番組の始まる前の早朝5時前に「DJが時間になってもまだ来ていません」と、スタジオ管理者からの携帯電話の一報で叩き起こされました。
その内に到着するだろうと管理者に言い、再びベッドにもぐり込みましたが、番組の始まる1時間前の6時になっても、DJはスタジオに顔を見せませんでした。
DJの携帯電話も繋がらないのであわててベッドから飛び起き、洗顔もせずに車に飛び乗りスタジオに駆け込みました。

まさかこんな事があるとは思わないので、緊急事態用の録音番組テープも準備していなかったので、アタフタあたふたするばかりでした。

仕方がないので 他局のエンジニアを捕まえ彼にミキサーをさせ俺がDJをやる事にしました。
最新音楽の選曲もままならないし、洒落た言葉も言えないので、そのままJ-POPの70年代後半から80年代の音楽CDを放送し、時たまDJらしく喋りました。

土曜朝の時間に、爽やかでそれぞれに思い出のある日本の曲がかかり、リスナひとりひとりがその時代、その時の思い出、体験を音楽を通じて蘇らせました。

俺も異国の地で 何度も何度も演歌やJーPOPで嫌な時、苦しい時、故郷が恋しくなった時、両親に不憫させた時、金が底を着いた時、何をしても失敗した時、会社を立ち上げた時、新しい契約が取れ舞い上がった時、子供が生まれて時など、その度に音楽で癒され、元気をもらって来ました。

この時の番組が好評で、俺がDJをしている2時間の間に感謝のメッセージやリクエストなど、FAXやメールがスタジオにどんどんと入ってきました。

この感激はDJをしたことのある人しか理解できないかも知れませんが、電波を通じてリスナーだけでなく 世界とも繋がっている気持ちになり、メッセージが心に響きました。

2時間に渡る番組が終わり、放送局内にある食堂で遅めの朝食を取りましたが、すれ違う人々から異常な眼で見られていました。
気が付けば、服装はステテコ(寝る時はパジャマでは無く麻のステテコ)とVネックの下着に、靴を履かずにスリッパ状態でした。

変人と思われながらもこの感動が忘れられなくて、とうとう俺がDJをする1時間番組まで作りました。

2008年11月12日

鶴笑師匠のお笑い番組

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俺がDJをする番組をつくりたかったのですが、なかなかよい案が浮かばない時に、日本から吉本興業に所属する笑福亭鶴笑師匠が家族を連れてSINGAPOREに移住(転勤でもないし……)されて来ました。

奥さんは教師の免許を持っておられるので 即就職が決まりましたが、鶴笑師匠は、手に職もなく免許もなく、ただただ口だけが職の噺家なので なかなか稼ぎに繋がりません。

日本人が3~4万人しか住んでいないSINGAPOREで どうして日本の落語家が生計立てていけるのか? よくぞ家族揃って当地に暮らし始められたな~と感心しました。

そんな鶴笑師匠をスタジオに招きインタービューをして、当地に吉本興業所属の芸人が居てまっせ~と紹介。ついでに、師匠には「さすが吉本の芸人、素晴らしい」と褒めちぎり、俺と二人で毎週演歌の番組を放送しましょうと持ちかけました。

但しギャラは、スポンサーが付くまではなしと持ちかけると 吉本興業も金には酷い所だが、その上前を行く興行興行師が海外にいたと嘆かれましたが、同じ関西人同士意気投合して番組が始まりました。

鶴笑師匠は、当初素人相手に番組なんて何をけち臭い……名前が売れればそれでよし、という感じでしたが、録音は一発取りで編集なし、下打ち合わせ等を一切せず すべて俺が仕切る事にしました。
俺は、週ごとに事前にテーマを決め 話の落ちを作り、準備万端で望みました。

番組では、いつも話のおいしい所を俺に持っていかれるので 鶴笑師匠も俄然芸人魂を燃やし始め、駄洒落の連発に次ぐ連発と、演歌の番組がお笑い番組に変わってしまいました。

そうこうするにうちに鶴笑師匠も海外で売れ始め、日本大使館からの援助もあり文化省から国際文化交流芸能人として認められ英国に移住する事になりました。

師匠曰く 「落語は、舞台に座るだけで 英国のスタンディングコメディーに殴り込みや~」とで、俺の所にいた元DJも賛同し退職して一緒に英国に行きました。

昨年英国で再会しましたが、元DJは、笑福亭笑子と芸名を貰い、お笑い芸人のプロの道を歩んでいます。



2008年12月04日

夜の番組のDJ達

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漢字の読めない新米DJには、多少の恥を掻きましたが、それより困ったのは夜の番組のDJ達です。

夜の生番組で 『お任せジョージ』事、DJジョージ軍団は、放送禁止言葉を言うだけでなく常に問題を 発生させる放送でした。

過激な問題を取り上げるだけでなく 電話を繋いでリスナーの意見を聞いていたので 日の丸掲揚、右翼、左翼、憲法第9条、第二次世界大戦、侵略戦争、日教組、などなど……。TVの朝までやっている討論会並に、夜からおもいきり討論会になりました。

ラジオですから顔が出ず、名前も『ラジオネーム****さん』の覆面状態ですから、言いたいことを言いたい放題。ハチャメチャ状態で、特に俺が出張してSINGAPOREに居ない時は最悪でした。

全ての番組は放送と同時に録音して 3ヶ月の保管が義務付けされていましたので、当局からお叱りを頂いたり、学校を卒業して以来始めて始末書を何回も書きました。

その内に3ヶ月間保管義務が1ヶ月まで短縮されたのと、番組の内容を変えたお陰で始末書を書くことはなくなりました。

あれ以来、品行方正になった訳ですが、何か妙に昔のワクワク感、スリル感、ドキドキ感を忘れられない悪餓鬼の俺がいます。




2009年07月08日

腕時計

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ベル、家具類のコレクション以外に子供の時から集めているのは腕時計です。 最初に購入した腕時計は、シチズン製の時計で、小学校5年生の時から新聞配達を始め、6年生の時(1965年)に月賦で買いました。
新聞配達は、朝刊だけでなく夕刊も配達していました。

朝は、家の目覚まし時計で4時30分頃に起床し、配達店で折込チラシを自分の配達地域だけでなく、他の人の地域分までチラシを折り込み、少しでも多くバイト代を稼ぎました。

夕刊は、学校の授業が終わった後、配達店に行き新聞を配達していましたが、授業が終わった後、友達と一緒に運動場で遊んだりしていたので、どうしても店に行くのが遅れがちになり、よく怒られていました。
いくら家庭の事情によりバイトをし、家計の足しになるといっても、遊び盛りの小学生にとっては、日曜日以外、毎日毎日(当時は、元旦と子供の日だけが新聞の休刊日で、現在のように毎月の休刊日はない)午後3時過ぎに、仲間と別れるのはとても辛かった。

1965年に山田太郎が歌った歌謡曲、『新聞少年』の歌詞さえ「朝刊太郎」ですが、俺は、朝・夕刊ともに配達していたので「朝夕幹雄」です。

ある時、友達と学校の外で遊びにほうけていて、1時間以上も遅刻をしてしまい、親方が俺の代わりに夕刊を代理配達しました。現在のように携帯電話などない時代なので、店に連絡も出来ません。
親方は、俺が何処か体の調子でも悪かったのか また、何かの事情で遅刻したと思っていたようでしたが、ズボンの汚れ方を見て『何時まで遊びほうけているのか』と怒りました。

俺は両手を大きく伸ばして、「学校の校舎に掲げてある時計はこんな大きいので、進むのが遅い」と言い訳したら拳骨を食らい、バイト代も削られました。

それ以来、遅刻するのが嫌で 自腹で腕時計を買いました。
44年以上も昔の話なので、腕時計は贅沢品。まさか小学生が腕時計をして通学してくるとは誰も想像していなかった様で、学校でも問題になりましたが、俺の家庭状況を考量して許してくれました。

それ以来、チクチクと俺の心臓と連動するように動く時計が好きになりました。
貧しい家庭に生まれようが、裕福な家に生まれようが、学歴が低かろうが、高学歴であろうが、IQが低かろうが、高かろうが、日本に住もうが、アメリカに住もうが、誰にとっても平等に1日は24時間、1440分、86,400秒で、時計の長針と短針が24回重なる。そんな公平な時間を1秒、1分、1時間大切に生きて生きたいとも思いました。

これまでコレクションした時計は、CITIZENからアメリカで買ったLONGINESに始まり、TAG HEUER、HAMILTON、ROLEX、CARTIER、CORUM、CONCORD、JAEGER-LECOULTRE、PIAGET、AUDEMARS PIGUET、GIRARD-PERGAUX、CHOPARD、CHAUMET、PATEK PHILIPPE、BVLGARI、FRANK MULLERと続いています。

なかには、定価が1000万円以上する物や、世界で9本しか製造されていないレア物、アンティークの物までがありますが、腕はたった2本しかないのによくここまで収集したと思います。

俺が生きている証が、腕時計なのかも知れません。

2009年07月23日

おくりびと

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映画『おくりびと』が、81回アカディミー賞外国語映画賞受賞しましたが、まだその映画を見ていません。
と言うより見たくない映画です。
2007年の3月23日のブログ会社の危機第四波、に書いていますが、優秀な日本人社員を交通事故で亡くしてしまい、その時にSINGAPOREでの遺体引き取りから納棺、葬式、火葬、関係各署の書類手続等全て体験しました。
それ以来、海外で病気や事故で不幸にも亡くなられた人々の遺体の輸送を200件も扱いましたので、その事を思い出したくなくて見たくないのです。

創業して5年経った1985年に俺の社員が、交通事故で死亡した後、程なくして日系企業の駐在員の方が事故で亡くなられました。
私の経験をその企業のボスが知っていたのと家族の引越もあるので、この駐在員の遺体を日本まで輸送を頼まれました。
私の亡くなった社員の供養と考え、シンガポールゼネラルホスピタルで検視、検体を行い、医者の証明書を取り、遺体を引き取り、即、専門業者でエンバーミング処理(血液を一部抜き取り、防腐剤を入れ遺体の損傷、劣化を防ぐ)を行い、事故で損傷した所に綿を詰めたりて整形し、顔に化粧もして、スーツに着替えさせて納棺し、鉛で棺を封印しました。
そして検疫所に行き、輸出証明書を取り、大使館で棺の輸出願い書、日本での埋葬許可書などを手に入れ 航空会社に棺を持ち込み日本までの輸送しました。
その間、丸2日間全ての仕事をキャンセルして、早朝から深夜までシンガポールを駆けずり回りました。

お陰で亡くなられて方の遺体を無事日本まで運び、地元で親類縁者の方々と一緒に葬式を上げられ遺族からも会社からもお礼を戴き、大使館からも良くやったと言われ、人の最後の時に遺体を守り、人間、日本人の尊厳を最後まで守られたので、これで亡くなった元社員に本当の供養も出来たと喜びました。
これが最初で最後の遺体輸送と思っていましたが……。

 

2009年08月05日

おくりびと 2

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遺体の輸送、『おくりびと』をした後は、食事もしたくなく、まして焼肉、刺身などは喉にとうりませんでした。
死とは何か? 生命とは? とか考えているうちに、どうせ人間、何時かは死ぬのだから……明日死ぬかも知れない恐怖にビビり始め、気持ちが落ち込みました。遺族の引越をその後しなければならず、いくら海外引越がビジネスとは言え、栄転される家族の引越と違い、遺品の整理も兼ねての海外引越は、辛くて辛くて、遺族並に涙を流して仕事をしていました。
時には夢にまで死顔ができたこともあり、全ての業務が終わっても1ヶ月間程度は、仕事に手が付かなく上の空、虚しい日々でした。
 
しかし、遺族の方から感謝、お礼の手紙をもらう内に 一度限りの命をどう生き抜くのか? 生命の不思議と命の大切さを感じ、両親、家族に今存在している事、生きている事に感謝できました。命がいかにはかないか、そして尊いものかを知り、この世に生まれた証をビジネスで成し遂げたと強く思いました。  
そうこうする内に またも日本人の方が病気で亡くなられ 遺体の輸送を頼まれました。更に工事現場で事故に遭遇した人、ゴルフ場からの帰りのバスから振り落とされ亡くなられた人など、駐在員だけでなく、観光客で亡くなられたの人まで頼まれてしまい、とうとう2~3ヶ月に1回ぐらいの割合で『おくりびと』になりました。
 
ある会社では、首席駐在員が、突然原因不明の病気で亡くなり、後任の方が決まる間での間、前任者の方が直ちに再赴任されましたが、この方も心臓の異常でまもなくして亡くなられました。
残された社員は、不安になりこれは、絶対事務所、会社が呪われていると、会社に来なくなったり、同時期に亡くなった二人の上司に仕えた日本人駐在員も私が悪魔の使いかも知れないとまで 思い始めました。
そこで色々な祈祷師を手配しその呪い解いてもらう事までしましたが、あまりにも多くの祈祷師を手配したせいかどうか解りませんが、その後この親会社は、他の会社と合併になり、更に会社名が変わり最後には、その会社の名前も亡くなりました。
 
そんな死に対して慢性状態が続いた時に事件が起きました。
 

2009年08月12日

おくりびと 3

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それは、日本人観光客で 65歳のお母さんと息子さんが、7日間、12都市巡り強行欧州旅行の帰りにSINGAPORE経由で帰国する旅の途中で、お母さんがSINGAPOREに着陸する寸前に機内で亡くなりました。
航空会社からと大使館から深夜に電話があり、遺体の輸送を頼まれましたが、その夜は深酒していた為、出来ればそのままの状態で日本まで飛行機で運べばとまで言ってしまいました。乗客や息子さんの事を考えれば不謹慎な言葉でした。

とりあえず空港に行き、病院まで運び医者の死亡診断書など手続を行いました。一連の処理を行った後に俺の不謹慎な言葉を息子さんになじられたので 俺は好きで遺体の輸送をしている訳ではないし、ビジネスとしてやっているんじゃないぞ~声を上げました。
親子で仲良くヨーロッパを旅行し、最後の死に目まで一緒にいることができるのは幸運で、更に旅行保険で3千万円もの大金が入って来るのだからこれほどの幸せはないぞ、とまで言いました。

観光客の方の分まで『おくりびと』になってしまっていたので 当時は観光客がスミングプールで溺れて亡くなったり、更には溺れる人を助けるために2人とも亡くなったり、ハネムーンで来た新郎が、プールに飛び込み首の骨を折り亡くなったり、ホテルの部屋で何者かに殺されたり、自殺したりと、嫌な理由で亡くなった方の遺体の輸送が数々と出て来ました。

中には遺族が遺体の引取りを拒否して、SINGAPOREで焼くなり土葬にするなりして下さいとまで言われる人まで現れたり、遺体を親族以外の人と取り合いになったりする人と、色々な人間模様を見ました。
そんな経験があるからこそ、お母さんを旅の途中で亡くされた息子さんを見て、ラッキーだと言ってしまったのです。

極めつけは、折角遺族の事を考え、亡くなられた人の事を思い、色々と手配したにも関わらず、遺体輸送費を支払わない人まで現れました。
そして夢の中には死神が現れ、「もうこれくらいでええやろー、お前が死んだ時、友達が多すぎて地獄に落とせんわ」と言われ、これで遺体の輸送、『おくりびと』とは、申し訳ないけれど縁を切りました。

 

2009年10月01日

エルメスの裏地

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食欲の秋に寄せてという訳ではないですが、大阪には‘食い倒れ’という言葉があります。
この言葉は、日本中で有名ですが、関西には、食い倒れ以外にも各地に特色ある言い回しがあります。神戸は、‘履き倒れ’。神戸に多くの靴屋さんが存在していたの神戸は、坂の町なので他の都市と比較して靴やヒールーがちびりやすく(関西弁) 靴を多く買ってしまうので 神戸の履き倒れと言われました。

俺の生まれた京都は、‘着倒れ’と言われます。これは呉服問屋が多くあるだけでなく、遷都以来の着物文化社会で、京友禅、西陣織など着物全てが京都にあるからです。

高校時代、漕艇部のキャプテンを1年生からしていましたが遠征費用など工面する為に、OBが経営する染工会社(友禅などの染物を水洗いする会社)に、冬休みはバイトで働いてました。その時に気がついたのは、羽織などの表生地より裏生地のデザインの優れた物が沢山あることです。奇抜なデザインから奇想的な物まで 日本の芸術にただただ驚くばかりで 男のファッションは、チライズム、色気は、裏地にあると確信しました。

会社を経営する様になり、仕事着もジーンズから ネクタイにスーツ姿に変わりました。それに伴いオーダーメイドのスーツも毎年沢山作りましたが、どうしても裏地に懲りたいため、とうとうエルメスの大判スカーフを2枚買い、ポケットの裏地、襟の裏地までエルメスで仕立てしました。
銀座や赤坂に行き、部屋の温度は心地よいのに、この部屋は暑いと言い、さーと上着を脱ぐのはさながら‘遠山の金さん’が、肩の桜吹雪を見せると同じ感覚で、脱いでいました。
でも ドライクリーニングをする時に、ウールとシルクの収縮差と原色の多いエルメスのスカーフと背広の色との関係で同じ揮発剤が使えず、一度裏地を剥がしてからしか出来ないため、何処もドライクリーニングをしてくれませんでした。

背広の生地代、仕立て代より、エルメスのスカーフ2枚分の方が高くその時作った4着のスーツは、ゴミ箱に消えました。
でも 33年も前に買った物を今なお、保管しているシャツがあります。

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