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ビジネスのノウハウ アーカイブ

2007年02月27日

今までのビジネスのノウハウを直伝しますよ。

27歳で会社を設立し、今年、創立満27年を迎え、

SINGAPOREを本社に置き、海外に18会社、支店を築けました。

当地での滞在も30年を迎え、会社設立30年を迎える2010年には、

海外支店、会社の数を4社、4都市まで 伸ばしたいと思っています。

振り返れば、あっという間の30年、27年でしたが、SINGAPOREの

成長に併せて一緒に成長出来たと思います。

INTEGRATED RESORT(カジノ)が、当地に出来上がる

2009、2010年に更なる飛躍をしている事は、間違いないと

確信しています。その為にも優秀な人財を いち早く採用する

必要に迫られています。我こそと思う若者は、居ませんか?

今までのビジネスのノウハウを直伝しますよ。

森 幹雄

2007年03月01日

お金

会社を設立して、お金という物は資金という形でアッと言う間に
なくなる物、と強く思った。

設立以来、毎日頑張り続けて、売り上げを伸ばして順調に会社が成長したが、今度は、オペレーションの資金が足り無くなって来た。

仕事は幾らでも入ってくるのに業者等に立替払いしていく中、
集金サイトの問題で手持ちの資金が無くなった。

そこで「運転資金を融資して下さい」と今は消滅した某銀行に
(我々は今も存在しているが・・・。)融資の依頼に行った。

すると『森さんの活躍は目を見張るものがあるので、融資を前向きに
検討します』と言われ一安心。しかし続けて『500万円融資するので
500万円相当の担保を戴きたい』と顔色ひとつ変えずに淡々と
言われた。

(ナニいぃぃぃ・・・と握り拳を隠しつつ)
『私の2歳になる息子に5個飴玉相当分をくれたら5個飴玉をあげるよと言って息子は、喜んでYESと言いますか?』と斬り返したが、
有名大学を卒業したこの行員は、単純な計算式は苦手なようで
答えを出せなかった。

それ以来、銀行にはお世話にならないぞと決め、ビジネスを
遂行して来た。

バブルが弾けた年に同某銀行マンが、『余裕資金を利回りの良い
定期預金しませんか?』と営業にやって来られた。
『良いですよ。営業もノルマがあるので大変でしょう。
お手伝いしますが、1億円の定期預金をするので1億円担保を
出して下さい。』と言ったところで銀行マンは、
定期預金通帳を作り始めるだけ。そこで昔話を持ち出し
『貴銀行は何時他の銀行に買収されるか解らないし倒産するかも
解らないので預金の担保を取るのが何故悪い?』と私も顔色を
変えずに淡々と言い、創業時の恨みを果たした。

しかし今日、アジア全土に会社を広げ発展で来たのも某銀行マンの
お陰と確信しています。

本当に心からの感謝とお礼を申し上げます。

もしリストラや、定年退職していたらお礼に雇用をしたいと思う
この頃です。

2007年03月11日

振る舞い

会社を設立して 直ぐに資金が無くなった事を書きましたが、
資金は、まず事務所の保証金と家賃の前払い、車のリース代金などで
あっと言う間に底に突きました。
そもそも事務所の保証金と家賃が高かった為ですが、
それもその筈、日本で言えば丸の内の「丸の内ビル」のような
由緒あるビルに事務所を構えた為です。
そのビル(HONG LEONG BLDG)は、1階が東京銀行、三井銀行、日本航空が入居し、更には三井物産、丸紅、伊藤忠、日商岩井、
新日鉄、日本石油といった、そうそうたる超一流の日本企業が
入居していました。

何故資金が無いのにそのようなビルに入ったのか?
それは『看板と信用が欲しかった為』です。
27歳の若造(当時は歳をごまかす為に髭を生やしていた)で会社を
設立したばかりなのですが、このビルに入居している事で、
誰も資本金が幾らかとか、売り上げが幾らか?とかは一切聞かない。
名刺には、太く大きく住所が判る様に明記しました。
その代わりに事務所の机、椅子や備品が買えずに床にゴザをひき、
電話帳を積み上げ、その上に電話を置き、ゴザの上に正座して
お客様からの電話を待つ、という毎日でした。
来客があるといつも地下にあるコーヒーショップで会談していました。
そんな事務所がばれないように。

≪金が無いときは金があり余っているかのように振る舞い、
金が山ほど出来た時は、金が無い振り、貧乏の様に振舞うのが
ベストです。≫

2007年03月12日

約束手形と小切手

会社を設立してから金の無い話ばかりですが、銀行からも融資を
受けられず(何も担保が無いので当たり前だけど。。。)ビジネスは
順調に売り上げを伸ばしていきましたが、どうしても運転資金が
ショートしてしまいました。

日本の様に約束手形があれば、手形を切れば、当面の運転資金は
確保され、又、約束手形を貰えばそれを街金融に持ち込めば
割り引いて即、現金化出来ます。
SINGAPOREには、この約束手形が無いので 仕方なく知恵を絞り、
当地版の約束手形を考え付きました。

例えば、今月末に支払わなければならない業者に、
銀行小切手の日付けを2週間ほど先延ばした物を手渡していました。
今は現金が無いので支払えないが来月の中旬までには集金した
金が入るので。。。
この“約束小切手”で2週間程度の資金繰りが出来ました。

また、その2週間後にもし現金が無い時は、小切手が不渡りになる
ので業者に頼んで銀行に持ち込むのを2日程度遅らしてもらったり
していました。
それでもどうしようもなく手持ち現金が無く、支払わなければならない
非常事態の時は、またまた知恵を絞り、わざわざ英語のスペルを
間違えたり読みにくくしたり、日付けを間違ったりして銀行が
受付けしない様にしていました。
(小切手は、支払い先名、金額の数値と英語で金額を書き、
日付けを入れ、サインするので。。。)
スペルの間違いを指摘されたら『ゴメン、英語が弱くて。。。』と
頭を掻き掻きして謝っていました。

それもこれも運転資金が無かった為の知恵ですが、
もし約束手形が、当地にあったらもっと楽に会社経営出来た、と
その当時は思っていました。
しかし今から考えると約束手形が無かったらこそ、現金のみを頼り、
キャッシュ・フロー(当時はこんな言葉は無かったが)を考え、
会社を経営して来ました。

それ故、27年間もビジネスを続けて来られた、と思うこの頃です。

2007年03月14日

金、ローレックス、ベンツ

世界の3大商人と言えば、ユダヤ人、インド人そして中国人ですが、
SINGAPOREは、この2大商人が人口の85.21%をしめています。
おかげで彼らには数々のビジネステクニックを学ばさせてもらいました。

会社を設立して毎日10時間程度、月曜日から土曜日まで、また
繁忙期の2月、3月は、月、月、火、水、木、金、金状態で
一生懸命働いたので多少の小銭を稼ぎました。

そこで買ったのが、金のネックレス、金無垢のローレックス時計、
メルセデスベンツ(車)です。

日本で言えば、
正真正銘の【成金趣味】の一言ですが、
子供の時代に家が貧しく小学校5年生から朝、夕刊の新聞配達を
して家計を助けていたので自分の欲しい物が買えなかった反動でも
あるのですが、ビジネスを成功させた証として買いました。
この3品は、中国人の3種の神器、夢の品物です。
何故3種の神器なのか?、それは何れの商品も即、転売出来き、
それほど価値が下がらず反対に上がる位の品物です。

ネックレスは、18金でなく勿論金の純度が高い22金製、ローレックスも日本での中古品価格を見れば理解出来る筈でし当地にも貸屋が
あり、ローレックスなら即現金化出来ます。
ベンツも高い人気の有る車ですので中古車屋に持ち込めば
それほど値段が下がらず引き取ってもらえます。
平常時には、高級ブランド品を身につけている誇りと、緊急時には、
それを即現金化しビジネスを継続させるというこのアイデアは、
中国人から学びました。
今でもこの3品に更にはダイヤモンド(DカラーのVVSで 数カラットで 鑑定書付き)の指輪までしていますが、
あくまでも緊急時の事を考えての事です。

『成金趣味ではありません』と言っても信じてもらえない此の頃です。

2007年03月15日

和僑

華僑、印僑(海外で生活するインド人)にビジネスをイロハを
教えてもらいましたが、インド人には強烈な思い出があります。
中国に次いで人口の多いインドですが、日本、関西には、
多くのインド人ビジネスマンが住んでいます。昔から繊維関係や
電気製品の輸入、輸出を多く手がけています。

SINGAPOREに来る前にアメリカで1年半滞在し、ビザのトラブルで
帰国した後に大阪駅前丸ビルの下にあるインドレストランの支配人を
開業準備から開店まで1年程度していました。

30年以上の前ですが、カレーのルーだけで800円、ご飯200円という高額で、なんと「カレー」「ライス」を頼むと合計1,000円もします。
此れにサービス料金10%を取っていました。
インドのタジマハールホテルのシェフを2名を雇っていた、
超高級レストランでした。故郷から遠く離れ異国の国でビジネスをする
インドの人々は、本場の料理を食べるのを高いけれど楽しみにされていました。

しかし、いつでもウエイター、ウエイトレスとインド人のお客様と
揉め事が有りました。
いちゃもん、文句が殆どでしたが、カレーがHOTで無いと文句を
言われ、冷えたかもしれないので温めると又、HOTで無いと文句。
今度は味が、HOTで無いと文句でその間、3カレーを食べて
しまいます。此れでカレー代は270円(≒800÷3)です。
本当に賢いなぁ、と思いました。更に勘定する時は数字に強く、
二桁の掛け算も一発で御明算!びっくりです。

SINGAPOREに来ても、契約時に散々値切られ、発注時に契約した時の金額をさらに値切られ、支払い時に更に端数をCUTされるのが
常です。

恐るべしインド商人ですが、それを見習って、レストランでは文句を
言い、価格交渉にはめっぽう強い和僑になりました。

2007年03月16日

家と資産

海外引越をメインビジネスしているお陰でSINGAPOREで何回も
引越をしました。

まず、初めて住んだ家は、HOLLAND地区でテラスハウスの1部屋を
間借りしていました。

その後、UPPER THOMSON地区のセミデタッチの家に移りました。
そこは庭付きの2階建、3BEDROOMの大きな家に一人で住みました。
家賃が安い郊外の家なので会社から遠く、通勤に時間がかかる
(今の様に高速道路が発達していなかったので片道90分)ので
引越しました。

その後、WEST・COASTに引越しました。
この時に既に結婚し子供も1人いました。

さらにその後、会社を設立したのでまたまた引越です。
海の見える、KATONG地区のマンションでした。

そして、毎月、毎月家賃を払っているより家を買った方が
資産にもなるので会社設立2年目でEAST・COAST地区の家を
購入しました。家を買えるぐらいビジネスが上手く行った時期でした。

しかし30歳前に会社を設立、そして家を買い、子供も二人いて
ビジネスなんて簡単な物とラ*フドアー堀*元社長並みに
鼻持ちならないぐらいの傲慢が、災いをもたらしました。

借金を返す為、仕方なくこの家を売却して、
また再び家賃を払う生活になろう、と腹をくくりました。
しかしなんとこの家が購入した時の価格の2倍で売れました。

借金を返した後にまだマンションを買えるだけの金が残りました。
そこで会社を設立する前の気持ちと考え方に戻る為に、
WEST・COASTに引越しました。

そしてまたまたこのマンションを売り、その金で出版、
メディア会社のCOMMを設立したり、海外に支店を増やして
ゆきました。

とりあえず家賃生活をする為と子供が5人も居たので
HOLLAND地区の大きなマンションに引越しました。
このマンションは、各フロア毎に2世帯しかなく、各戸は
2フロアのマンションでした。

その後庭付きの家が、やっぱり落ち着くのでWEST・COASTに
再度引越。

そこの家賃が高くなったのでHOLLANDの近くのマンションに引越。
当時不動産ビジネスも始めていたので、良い情報を得て
タウンハウスを投資の為に購入、その家を外国人に貸し
その家賃を銀行ローンの返済に充てていました。

更にマンション生活も嫌になりCHANGI地区に家を又購入し引越し、
今もそこに住んでいます。

ところで何回引越したかわかりますか???

2007年03月18日

男の甲斐性【車編】

すざましい回数の引越をしましたが、
車の乗り換えはその比ではありません。
まず、SINGAPOREに来て乗った物は、ホンダの90ccのバイクでした。

23歳の若さでしたのでのでVISAが取れるか全く不明でした。
その為、会社が用意したのがバイクです。営業の仕事なのにバイクしか
与えれれず、今の様に排気ガス規制の無い時代で殆どの車は
黒煙を上げて走っていました。そのため、毎日カッターシャツの襟首や顔まで真っ黒になっていました。更に当地のスコールの為に全身ずぶ濡れになったり、雨宿りしている間にアポイントの時間に遅れたりと
散々な毎日でした。

念願のビザが、取れて最初に乗った車は、中古の日産サニー
もうこれで雨に濡れない、と喜んだのも束の間、エアコンが装備
されていなかったので、あいも変わらず排気ガスには
悩まされました。

灼熱の当地でエアコンが無いのは、
排気ガスまみれ、汗まみれになるので
エアコン付きのホンダ・シビックに乗り換えました。

営業成績も上がってきたところで次の車は、米フォードのコルティナ
外車を運転していると海外で働いているなあー
という実感が湧いてきました。
しかし、この車は雨が降ると電気系統がショートしていつもエンストして
立ち往生・・・。

走らなければ車ではない、仕方なく、性能重視で日本車が良い思い、
トヨタのコロナマークⅡに乗り換えました。
もう一端のビジネスマンで何処に停めても自慢の車でした。

そして独立し会社経営を始めた時に、即買った車が、中古車でしたが、
お洒落なイタリアの黄色いフィアット
車種だけでも目立つのに、車のナンバーが、6969で皆から
『昨晩何処何処に行っていたね。。。』と殆どの行動がバレバレでした。

そんな事もあり、とうとう夢の車、メルセデス・ベンツに買替えました。
しかし30歳前の男がベンツを乗り回しているのは、
多くの反感をかいました。
ぼろ儲けしているとか、妬み、恨み、嫉妬の世界でした。
日本人社員の社用車は、皆小型トラックや、バンで給料も安く
こき使っていたので余計怨まれました。

色々なトラブル(詳しい事は次回以降のお楽しみ!)が続き、
仕方なく三菱ギャランのステーションワゴンに乗ることに・・・。

初心に帰って一生懸命に働き業績も回復したので次は
アウディ100CD
を買いました。
さすがドイツ車で毎日気持ち良く飛ばしていましたが、
この新車で納車1ヶ月目に修理の目処が付かないぐらいの
大きな事故を起こしてしまいました。
幸い擦り傷だけで何の怪我も無かったのですが、
今でも事故車の写真を見ると良く生きていたなと思います。
その後ラッキーなことに保険会社が、保険料は1年分しか支払ってない
のにもかかわらず新しくアウディを納車してくれました。

しかしこの事故以来、どうも縁起が悪いので日産のセドリックで厄払い。

ちょうどその頃、事務所と倉庫を新しい所に移りましたが、
隣に高級車ばかりを修理するガレージがあり、毎日世界の名車を
見ている内にどうしても欲しいと思う車が現れました。
英国製のジャガーです。勿論、即買い替え。ご存知かも知れませんが、
ジャガーには、燃料タンクが2つあり120リットルもガソリンが入ります。最初私は、欧州では、市内、郊外ともそんなにガソリンスタンドを見ない事と、長距離運転する為に大きなタンクがある、と思っていましたが、
何の事はない、只単に燃費が悪いだけ
ガソリン代の高さ(燃費の悪さ)と
維持費の高さに文句を言うと
『ジャガーに乗る人は、燃費も維持費も気にしませんよ』と言われ、
仕方なくBMW728に乗り換えました。

しかし同じドイツ車でもBMWとベンツには、差がありやっぱりベンツに乗りたくなり又もやベンツの最高級クラスのベンツSクラスを購入。

このベンツのSクラスは、新型モデルが出るたびに乗り換えました
今はベンツのスポーツタイプのCLS(AMG仕様)に乗っています。
スポーツ車にした理由は、50を過ぎ一度限りの人生を楽しく愉快に生きよう!と思った以外にありません。
(“ちょい不良オヤジ” byLEONのイメージ・・・)
そしてビジネスの面でも、もはや人の目を見て
どうこうする様な時代ではない、
と心底から思えるようになった事も、この選択を後押ししました。

これ以外に所有した車は、ビンテージカー、クラシックカーです。

最初に手に入れた【というより元日本人社員のローン未払いでその保証人をしていた為、止むを得ず全額支払させられた】のは
1953年型のフォードのポピューラで、自分と同じ年に生まれた車
という事もあり愛着がありました。元々機械関係が好きで高校も
工業高校卒業でしたので油の臭いも好きな臭いであり、
車を弄繰り回すのが楽しくてたまらなくなってしまいました。
これを期にクラシックカーの愛好家になり、どんどんとクラシックな車を
買い集めました。

次に買ったのは、1958年型のベンツ170で たびたびクラシックカーの
ラリーに出場していました。これ以外に38年型シンガーロードスター
(ミシンのシンガーではなく 英国製の車)、
60年型オープンカーのMGA1800(ツインカムシャフト)、
65年型マルコスロードスター(英国製)。

専ら休みの日に乗り廻すのですが、古い車の為エンジンが
オーバーヒートしたりと何かと手こずる車達です。
しかしそれが楽しみの一つもあります。

ここで又もや質問!
いったい何台車を乗り換えた?

2007年03月19日

会社の危機_第一波

26歳、27歳の狭間の時に海外で会社を設立し、即、家も購入し、
外車を乗り回し、仕事を終えたら接待と称し クラブ、ラウンジ等の
飲み屋をハシゴして街中、肩で風を切って歩いていました。

でも驕る平家は久しからずでとうとう会社の危機がたて続きで
これでもかこれでもかと襲ってきました。

第一波は、限られた市場の海外引越より、もっと大きな運輸業全般へ
手をのばしたくなったときにやってきました。

現地の社員を雇用し市場開拓をして行く事で、大きなビジネスが転がって来たのです。丁度、イラン・イラク戦争が始まり、中東にカーゴ輸送するのが困難な状態でした。いくらバクダット(今では、有名な所になりましたが。。)まで輸送するカーゴが有っても、バスラー港に魚雷が浮いている状態では、大手船会社、運輸会社は、そんな危険を冒してまでも戦争地帯に輸送はしません。
そこで バスラー港には行かず、クエートで一度陸揚げしてトラックでバスラー経由、バクダットまで輸送するアイデアを考え、見事にこの仕事を4回分受注しました。1回の売り上げが5千万円、合計2億円の仕事で利益は、予想で8千万円以上です。
しかし結果は、失敗。
輸送する前に船会社が、倒産してしまったのです。
荷主は、「あんたの責任だ!損害賠償(
3億円以上)を払え!!!」と
裁判所に訴えました。そうこうしている内に銀行口座も凍結され、
ニッチもサッチも行かない状態になりました。

大きなビジネスチャンスが、何の事がない大ピンチになりました。

これも自信過剰がもたらした結果でした。毎日毎日、食欲も無く、眠れず、起きてももさめても裁判の事が頭から離れません。
ただ、「何も悪い事はしていない、悪いのは倒産した船会社だ」と思うだけの毎日でした。そんな苦痛の日々を過ごす俺に、マレー人の妻が、
『貴方はSINGAPOREにスーツケース1つだけで来たんだから、又、
スーツケース1っで 日本に帰れば。。。2人の子供は、私が此処で育てるから大丈夫』と言われてしまいました。
ここで「はい!ご好意に感謝して日本に帰ります」と言えない大和魂が、
身体全体からムクムクと涌いて来ました。「よし裸一貫で来たんだから又、裸一貫で帰れば良い、だけどその前にあらゆる努力をして人生に恥と汚点を残さない様に頑張ろう」と決意したのです。
荷主と裁判で争うのではなく、今まで儲けてきた金を全部渡す
3億円には到底届きませんが・・・)と言う案で示談して和解しました。
この裁判で誰よりも裁判手続を熟知し、弁護士の使い方から争い事の
裏の裏まで脳裏に刻んだお陰で今のオレ、会社が存続しています。

ひとつだけ残った問題は、これ以来、妻に頭が上がらない、
という事です。

2007年03月21日

会社の危機_第二波

第二波は、雇用していた日本人社員の造反でした。
その当時4人の日本人社員を抱え海引越業界NO.1の売り上げと利益を上げていましたが、雇用した日本人は、どこかにすねに傷があったり、学歴が低かったり、日本で馴染まない様な人間ばかりでした。
オレも工業高校しか卒業していないので大卒や建前だけのエリート人間には、違和感があり、頑張って働いてそんな人間を見返せ!とハッパをかけていました。水滸伝に出て来る
晁蓋(ちょうがい)
梁山泊の初代首領)気取りでした。

しかし余りにも社長と社員の給料や待遇が違うので、その当時は
不平不満が噴火する前の火山の様でした。「何の経験も無いのに高い
賃金が払えるか?この会社は、海外で働く為の色々なノウハウを教え
るビジネススクールや!給料どころか授業料を貰いたいぐらいだ。。。
おまえらを雇えるのはオレの会社だけだ!」
そんな状況の中、一人の社員が、奥さんが貯めていた子供の教育費を
すくね単車を買い、その上さらに借金をしていました。それが発覚した
時点で有無も言わさずその社員の首を切りました。
余りにも強引と思ったのか、また前述の第一波の後遺症で会社倒産す
る可能性も高い、次は自分か?と不安に駆られ、三人の社員が、同時
に辞めました。

これで一人の日本人社員も居ない孤立状態になりました。
更にこの時に辞めた元社員が独立し競争会社になったのです。相手
は、此方の手の内を確りと学んでいて毎日厳しいトレーニングをし競争
会社を設立出来る位の戦士ですから正しく飼い犬に手を噛まれ状態で
大苦戦の毎日でした。しかしこれもオレが招いた問題で他人をどうこう
言う前に、退社した人間が、『あの時あと一踏ん張りしていたら、退社せ
ずに居たらもっと楽しい事があったのに・・・。悔やむな・・・』と言わせし
める様に、と心に誓いました。また競争会社が出て来たら、その会社以
上に知恵を絞り、長時間働き、自分を更に切磋琢磨すれば良いとも思
いました。

辞めた三人の内、一人は音信不通、もう一人も会社潰して方向転換
し、残る一人は、今、再度入社して働いて居ます。
昔の様に厳しく???
その出戻って来た元社員と時々昔話をしますが、どうやってもオレとビ
ジネスや喧嘩しても負けるが、オレが妻に敵わない理由が不可解?と
今でも言っています。

2007年03月22日

会社の危機_第三波

第一波、第二波とたて続けに大きな難問、危機が訪れましたが、
第三波もやっと波が引いた後に又もやの襲来でした。
日本人社員が、一人も居なくなり、新たな競争会社も出来てしまったので 再度日本人社員を雇用しました。

即戦力になる社員で経験豊かでそれなりの大学を卒業している事を
条件に選び、採用したのが初等科、中等科等の名称を使う超有名大学を卒業した者でした。
只、難点が、お調子者と余りにも社交的、見栄を張るタイプ、金銭感覚がずれている御曹司で離婚も2回していました。仕事は、てきぱきとこなし、アッという間に友人をいっぱい作り、スポーツマンでGOLF、水上スキー、ラリーと何でもこなし仕事も遊びもバリバリ!としていました。
それが、あちこちで借金を作り始めとうとう事務所にも金を払え等と脅しが入る様になりました。実は日本にも大きな借金があった様でした。

終いには、ある日突然、行方不明。社宅に行ったらもぬけの殻で置手紙があり、借金が膨らんでヤクザ連中にも脅されどうしようも無いので日本に妻と一緒に逃げるとの事。。。。
手紙を読んで何かテレビドラマを見ている感じとそのドラマの主人公になって行く感じでした。
汲めども汲めども押し寄せて来る波、津波に
飲み込まれそうなショックでした。
日本人社員が、行方不明、借金を踏み倒し日本へ逃走との噂が、
噂が噂を呼び、あっと言うまに日本人社会で 広がり、
又、例の社長の会社が。。。と酒の肴にされる毎日でした。

幾ら本人の責任問題としらを切っても社長としての管理責任を問われ
こうなれば逃げるわけには行きません。飲み屋のつけからクレジットカード、日系の百貨店とあらゆる未払いを長期月賦で支払いました。

その中で大きな借金が二つありその一つが前述のクラシツクカーです。
このクラッシクカーを買って逃走した元社員は、ローンを組む時に保証人が居るので絶対に迷惑を掛けない、支払いが、とどこうれば、給料から引いて下さいと言い、オレは、仕方なく保証人になりました。
結局、満額支払った後にこのフォードポピュラーが手に入りました。
またこの社員はモーターボートもローンで買っており、
此れも保証人になりましたが、こちらは、即売り払いました。

更に会社の社用車を担保に金を借りていました。それも2台。
そのうちの1台は、会社の名前と同じトヨタのクラウン。
街金融から借りていたので、腕っ節も強く強面の人間が、会社に乗り込んでこのクラウンを返せと迫ってました。この車は、登記は元社員だが、社用車で毎月のローンも自動車販売会社に支払っていて所有権は自動車販売会社にあると腕をまくり怒鳴り上げました。
最後の捨て台詞は、オレは裁判を何回も経験し来て何回も地獄を見ているので一筋縄で行かないぞと。。。

此処で色々な苦難を乗り越えているという自信から肝が据わり、更に裁判の経験が活きてきたのです。

今では裁判に関して相談事を受ける日々です。

人生、何事も逃げずに真正面から問題と取り組んで行くのが
強くなる秘訣です。

2007年03月23日

会社の危機_第四波

このサイトを見ている人達は、よくもそんなにも危機が来るものかと
不思議がってると思いますが、まだまだ続きますので、
お付き合いの程よろしく。。。

第四波が、又もややって来ました。本当に此処までオレを虐める神様、
仏様、アラーの神にパンチを喰わしてやりたい気持ちで一杯でした。
でも神様、仏様、アラーの神様がオレをもっと高いステージに
あげる為、鍛えようとして居ると思い、過酷なトレーニングにも
音を挙げず対応しました。
しかしこの第四波は、全身全脳を揺るがす、大変厳しいものでした。

社員が一斉に退社し困っている時に知り合いのSINGAPORE
女性から 日本人社員の紹介を受けました。
この女性の友人が日本で知り合い日本人男性と結婚し子供産んだが、
日本での生活が合わないので旦那に当地で働らいてもらい、
子供と一緒に当地でやり直したい、との事でした。
この男性は、過酷で厳しくてドライバーに高い給料を支払う有名な
運送会社で働いていましたので、あの会社で勤まるなら大丈夫
と思い早速採用しました。
さすが元褌マークの会社に働いていたこの社員、夜遅くまで文句も
言わずに黙々と働いていました。

ただ、国際結婚をしているからでは無いのでしょうが、家庭内で
数々の問題があり、色々と揉め事がありました。
本人は、家に居るより会社に居た方が安らぐ、と言い土・日曜日も
働いてくれました。

引越がピークシーズンとなる2月末に、これから忙しくなるから体調に
気をつけて頑張ろう!と皆で食事をしました。その席でオレが酔い
彼が運転して帰る途中、オーチャード・ブルバードを走り、タングリンの
近くのカーブでブレーキも踏まず、それどころかアクセルを踏むので、
馬鹿野郎!事故るぞ!と大声で叫びました。
その時、『死にたい、死んでも良いですか?』と一言、言ったのです。
オレは、『お前には可愛い子供が居る、子供を不幸にさらすな!』
と言い返しました。
しかし、この会話が、彼との最後の会話となってしまったのです。

翌日の日曜日、彼は、奥さんと家で喧嘩して朝から酒を飲んで
いました。そのまま夕方まで酒を飲み、その事を奥さんから注意され、
一人で家を出て車に乗り、家の近くの道路のバス停の柱に直接衝突
して即死しました。
幸いバス停には人が居なかったので他人を事故に巻き込む大事には、
至りませんでした。
事故現場のバス停の前のカーブは、前日彼と通ったオーチャド・ブルー
バードと同じ形のカーブをしていました。
事故当日の夜、奥さんと警察から電話があり、
事故の説明と彼が亡くなった事を知らされました。
即病院に向かい、彼に対面、その後事故現場に行き、原型を留めない
車を眼の前に血の気が引いて行くのを感じました。

翌日床屋に行き、髪の毛をばっさりと切り頭を丸め懺悔しました。

お通夜、葬式と段取りをして埋葬した後に残された奥さんと子供を
どうお世話したら良いか悩み続けました。
既に時効なので書きますが、飲酒運転と判断されると保険の問題も
あり、何とかもみ消すしかありません。更に日曜日でしたが、
会社の勤務で夕方から仕事をして打ち合わせ現場に行く途中の事故
として労災保険も。。。
今までのコネを使い奔走しました。
お陰で大きな金額にはなりませんが、子供が大きくなるまで
当面の事は、出来ました。

それ以来社員を亡くす事だけはしまいと心に誓いましたが、運送業の
宿命で、SINGAPORE人のドライバーを勤務中にトラック同士の
衝突事故で亡くしました。

この件では、これ以上書けません。
彼らのご冥福を何時までも祈っています。

2007年04月14日

社長になるならサービス産業

旅行会社で働き、ツアーコンダクターになりました。
ディズニーランドには多い時は、日に3回も行く事もありました。
ロスの飛行場に日本からの旅行者を迎えた後、
市内観光してホテルにチェックインし、翌日にディズニーランドに
連れて行き、その翌日はサンディエゴや米国との国境線を超え
メキシコのティファナにも行き、その翌日にグランドキャ二オン、
ラスベガスに行く、というのが日課でした。

翌年が米国の建国200年目の為、色々と米国の歴史を勉強しました。
不思議だったのは、何故たった200年で世界NO.1の国になったか、
ということです。オレなりの理解は、
東海岸から西海岸まで西へ西へと開拓者が、
ゴールドラッシュで移動した事が大きな転機だったと言う事です。
金の鉱脈を求め駅馬車に乗り、インディアンと戦い、
ロッキー山脈まで超えて来たバイタリティーには驚かさせます。

このゴールドラッシュで今も残っているのが、
その比の作業服だったジーンズやホテル等です。
鉱業は無くなりましたが残ったのは全てサービス産業です。
アメリカエキスプレスも昔は金の輸送が原点ですし、
物の輸送から旅行小切手やクレジツトカード、
そして電子マネーと変化しています。

工業高校機械科の卒業ですが、工業関連に携わるよりサービス産業に
携わる方が、大きな資金も技術も要らないので
独立して社長になるのなら絶対にサービス産業だ!と
この時に確信しました。

短いアメリカ滞在でしたが、この時代の経験が
今のオレの血、肉、頭脳になっているのは間違いありません。

2007年04月24日

近道をしない

SINGAPOREを第二の人生場と決めた事は、
つくづく幸運だ!と思う此の頃です。

もし60年代の東南アジアでは頭一つ飛び出たフィリピンに行って
いたら間違いなくマルコス大統領・イメルダ婦人・マラカニヤン宮殿の
官僚達と上手く付き合い、日本のODA関連を取り仕切る裏役に
なっていたと思います。

又、東西の距離にするとアメリカ合衆国と同じ距離のある大きな国、
インドネシアに行っていたら、これまたスハルト大統領や建国の父、
スカルノ大統領の4番目の奥さんのデヴィ夫人と共に、
あの手この手で彼らに近ずき政権を担う官僚と大きな利権ビジネスを
していたと思います。

でもいずれの国も時の政権が変わればそれまでで、オレも元大統領、
ファーストレディー達と一緒に藻屑と消えていたでしょう。
それ以前に商敵から黒い噂を流されこの世から消えていたかも
しれません。

SINGAPOREは、ゴミ一つ落としても厳しく罰され、
法律も完璧に整っているので、ビジネスは王道を歩むしかありません。
近道をしないでこの厳しい王道を一歩一歩、歩んで来た事が、
他国で色々と応用出来き、他の日系会社より一歩先に海外進出を
果たせたとも言えます。

未だにフィリピンには、会社を設立していませんが、時々マニラに
行くとやっぱりSINGAPOREで起業した事で今日のオレがある
と確信しています。

2007年05月03日

新規ビジネス

今まで海外引越とメディア関連の会社のみ会社運営をしていると
皆さんは、思われますが実は、色々なビジネスを手がけて来ました。
残ったのが、海外引越と不動産仲介、出版、放送関連のメディアと
言った方が正解です。

まず最初に手がけたのが、メーリングサービス業です。
80年代の初期には、フリーペーパーの存在は無く、
日本から来る大手新聞配送会社に頼み折込広告を頼むか、
もしくは自社で広告を作り、自社でダイレクトメイルするのが
広告宣伝の方法でした。

日本人会では、会報誌を会員に送付する為の機械を使っていましたが、
新しい機械を購入する為、古い機械を売りに出していました。
それを早速購入し、名簿を新しく整理して海外引越の
ダイレクトセールスメール広告宣伝用として使いました。

他の業者さんから、『できれば我々のメールに一緒に同封して欲しい』
との要望が多くなり、ビジネスとして立ち上げました。
しかし日本人宅の強盗事件が多くなり、日本人会の名簿も流用
出来なくなり、このビジネスはポシャリましたが、
今の出版ビジネスのアイディアの基礎となりました。

その後、日本から色々な健康食品を直接メーカーから仕入れ、
当地で販売しました。『薬九層倍』と言われ原価が異常に安く、
利益率が大変に高い商売であるという事、これからは健康産業が
流行ると言う直感から、このビジネスに参入しました。

深海鮫のスクワレン緑藻スプリナ(スピルリナ)、ビタミン各種を
多く買い付けましたが、思った以上に売れなく引越のお客様に
サンプルとして差し上げるしか出来ませんでした。

ただ単に商社的に動き、物を右から左に動かしても上手く行かないので
次に考えたのが自社で開発した商品の販売です。
つまりメーカーになる、という事です。

丁度80年代中ごろからコンピュターが当地でも多く利用され始め、
長期間に画面を見続けると肩こり、首の痛み、目の疲労等、色々な
病状が問題になってきていました。
画面から出てくる電磁波やフラッキング現象、解像度、反射光などが
大きな原因なのでそれを防ぐ方法を考えました。
NASAで開発されたロケットの窓にコーティングする技術を利用し、
一定の可視光線しか通さないプラスチックの板にコーテングして
『アイプロ』と言う名称で特許、実用新案の申請もしました。

コンピュータオペレーターからは、本当に感謝されましたが、
SINGAPORE政府から広告記事の内容についてクレームが
付きました。広告宣伝に、『アイプロ』を使用することで肩こり、
頭痛、目の痛みを和らげる、防げると書いた事で『アイプロ』は
医療商品であると言われ、販売方法に規制が掛かりました。

当時は、国を挙げてコンピュータ化を推進している時期なのに
画面を見すぎると流産までしてしまうと言う外国の記事を紹介したのが
大きな原因だったと思いました。
同時にコンピュータメーカーが、この問題に着手し
画面の解像度を上げたり、反射しない様にしたりとして
目に優しい商品を新規に開発してしまいましたので
途端に『アイプロ』は売れなくなり、在庫の山となりました。

夢にまで見たメーカーから脱却し、目の下にクマだけが残りました。

新規ビジネス2

健康食品の輸入、コンピュータのフィルターを手がけましたが、
それ以外にも、中華料理には欠かす事できない人口フカヒレの
共同開発にも手を伸ばしました。

日本で流行りだした『蟹スティツク』は、蟹のすり身が全く入って
いないのに蟹の身に見えるので『蟹かまぼこ』としてもお寿司の種に
なるぐらいポピュラーなものでした。

同じ考え方で、“見た目は『フカヒレ』”の原料はプロティン。
それを開発して当地のみならず台湾、香港、中国、インドネシア、
マレーシアなどに輸出していました。

しかし“『フカヒレ』もどき”の商品を本物のフカヒレと一緒に混ぜて
スープにして出せば増量材としてメニューにフカヒレと明記しても
問題無かったのですが、一部の悪徳レストランが、本物を一切入れずに
我々の商品“『フカヒレ』もどき”だけでフカヒレスープとして
販売してしまった為、途端に本物が売れなくなってしまいました。
そしてその本物を取り扱う業者が新聞社にタレコみ、その記事が
掲載されてから急に売れなくなりました。

同時に中国で“『フカヒレ』もどき”のコピー商品、
『フカヒレもどきのニセ物』が出回り始め、海外市場も同様に
売れなくなりました。
“『フカヒレ』もどき”では、短期間ではありましたが大いに
儲けさせてもらいましたが、お陰で今でも中華レストランでは
フカヒレスープをオーダーする気にはなれません。

そのほか食料品では、倉庫の一部を改良してかいわれ大根、
アルファルファ、芽紫蘇(めじそ)も水耕栽培で作り、
大丸や日本食レストランに卸していました。

アジア通貨危機が起こり海外引越がピッタリと止まってしまい
仕方無く頭をひねらせ、どうしたら社員を首にせずに
倉庫とトラックの有効活用が出来るかを考えました。

そこで思いついたのが、かいわれ大根。海洋牧場で使われる、
ウレタンマットを利用した水耕栽培方式の機械を導入して、
当地で栽培すれば日本から輸入されている物より新鮮で価格が
安くなると思い、早速始めました。

しかし作物を作ると言うのは大変な事で失敗の連続でした。
岩手県の農家の出身の社員が言う、
『作物から出てくる言葉を聴きましょう』と言う訳の解らん言葉を
信じたお陰でとりあえず商品として出荷出来るまで改良することが
出来ました。

1粒の種が、4日間で5倍の重量になり、日曜日も祝日も休み無く
成長してくれる生命の力に驚かされもしました。

それなりに儲かりましたが、人手が集まりにくくなると同時に、
景気も回復し更に導入した機械も天寿を全うされ、廃業と相成りました。

かいわれ大根を食べる度にピリリと辛いオレの人生を
口の中で楽しんでいます。

2007年05月06日

代理店業務

今まで告白した失敗は、それなりに起業家の“なり”をしていると
思いますが、オレは、これ以外に日本食レストラン、そして化学商品の
東南アジア代理店にも手に染めました。

化学商品の代理店は、日本のメーカーからの依頼で始めました。
そのメーカーは、シンガポールでは駐在員事務所からのスタートでした。
丁度、彼らが契約していた代理店との間で揉め事が起こり,
オレの会社で是非やって欲しいと日参されて、勢いに押され
訳も解らず引き受けました。

売り上げがどんどん伸びるにつれて駐在員事務所から支店、そして
現地法人、さらに現地生産をする為、工場まで作りました。

その時点で色々な文句や高いノルマを設定されたり、新しい社員、
社長が赴任して昔の契約は、昔の話、今は、今だ,と
言われるようになって来ました。

それなら首を切られる前にこちらから代理店契約を解除する、と
通告しました。
オレは大和魂を絶対に忘れない日本から来た野武士である、
ということを証明する為にも!

それ以来、代理店業務はやりたいとは思わなくなり、仮にやるとしても
我々が主導権を握れる仕事でないと引き受けていません。
勝手なサラリーマンの都合で我々の社員が右往左往させられるのは
真っ平御免です。

2007年05月11日

常に危機感

色々なビジネスを手がけましたが、最初に手がけたのが
不動産仲介業でした。引越と不動産は車の両輪みたいな物です。
しかし、何処の会社でもこの両輪ビジネスをしている会社は、
当時ではありませんでした。

基本的な基幹ビジネスを行いながら、枝葉を増やし、そして伸ばして
行く必要性を感じたのが動機でした。
また、万一、海外引越ビジネスが、何なら事情により縮小したり、
倉庫の火事などの大惨事に遭遇した時のリスク回避にも良いであろうと
考えました。

SINGAPOREの政府は、マレーシア連邦から独立した時から、
世界、あるいは近隣諸国が、どんな状況になろうとも
SINGAPOREの独立を保ち、成長続ける為に常に危機感を
持ち続け、また、この危機感を国民にも植え続けています。
世界的な不景気、株、不動産暴落、通貨危機、サーズ、ヘイズ、
水不足、領土、人口減少、年金、高年者問題、人種問題、
野党政治、観光等、どんな事が起きても事前に危機管理し、
上手に対処してきました。
危機感を持つているからこそ此れからも間違いなく成長し、
アジアのNO.ONEの国になるであろうと確信しています。

この考え方をそのまま借りて1980年に設立して以来、
CROWN LINE GROUPは、今も存続し此れからも
未来永劫、経営していきます。
今のCROWN LINE GROUPは、両輪どころか4輪、
しかも4駆動的な会社になって来ました。目指すは、
大きくて省エネのエンジンを装置した水陸両用4輪駆動車、
更には空をも飛べる車、時には深海も潜れる車。陸、空、海軍同様な
組織で内装もリビングルーム的な快適な空間の車です。

不動産ビジネスの為の会社を立ち上げた事でビジネスの多角化、
多様化を進める自信が大きく出来ました。

2007年05月19日

ワーキング・ホリデー

新しくビジネスを展開する時にオレなりの基本があります。

まず、これからやろうとするビジネスは、
必ず誰もまだ手をつけていない未開拓のビジネスである事。
もしくは、誰がビジネスを興したが失敗に終わったビジネスである事。
【例:コンピュータモニターから眼や肩こりなどを防ぐアイプロ、
健康食品、不動産仲介業、吟醸酒を日本から直輸入した
日本食レストラン】

スタートした時は、小さなビジネスでも
大きな夢が抱けるビジネスである事。
かいわれ大根、紫蘇の水耕栽培は、将来SINGAPOREの
全てのHDB団地の屋上に水耕栽培で野菜農園を作り、
収穫した物を団地の下の市場で売り、老人対策や食料飢饉の回避、
無農薬野菜で健康促進等を考えていました。】

既存の海外引越ビジネスに何らかな形で相乗効果を齎す
ビジネスである事。
【後日に書くが、生活情報誌、電話帳のHELLO SINGAPORE、
FM96.3日本語放送、J-PULS、J-SORTS、
シンガポール経済新聞などのメディア会社】

更に現地ビジネスマンの仕事を奪ったり、
価格をダンピングしたようなビジネスは絶対にしない事。
フカヒレの増量剤、ツバメの巣

此れを元に色々なビジネスを今まで展開して来ました。

今年の12月から遂にSINGAPOREでも優秀な若者を
ひきつける為にワーキング・ホリデーが開始されます。

他国と比べ6ヶ月間のみという短い期間と、延長が出来ないなどの
規制はありますが、国土の小さい当地で此れが実施される事は、
日本の将来を担う若者達がダイナミックに躍動し続けるこの国を
体感する事ができると言う事で、すなわち近い将来、
必ず若い起業家が生まれてくる筈です。

そんな若者達にオレの経験と体験が少しでも役に立てば
これほどの喜びはありません。
オレが21歳の時に渡米しアメリカンドリームを夢見た様に
閉塞感溢れる日本から飛び出しアジアンドリームを一緒に見ないか?

SINGAPOREは、2008年にF1レースが開催され、
2009、2010年には大型カジノと総合レジャーランドが
出来上がるぞ!

日本の若者よ!今こそアジア、21世紀は、SINGAPOREが凄いぞ!

2007年05月21日

知恵の結晶、酒蔵【くらま】

なぜ日本食レストランを開店しようと思ったのか。

それは、幼年期にお腹がいっぱいになるまで食べた経験が無かった事、
それと同時に美味しい食事に大いに憧れていたからです。
又、米国から帰国した後に大阪の丸ビルでインドレストランの
支配人をしていた経験も活かせるのではないか、
また引越関連の顧客を接待する時に自分の店で行えば、
第三者にはお金が出て行かないとも考えました。
更に大きな倉庫と毎日配送するトラックと社員がいるので、
家賃の高い一等地に店を開いても倉庫、保管場所などが要らないので
有効的に席数を増やせると思いました。
 
当時の当地での日本食レストランは、
若い時に来星し、修行して自ら独立したオーナーシェフの店、
または有名な日本のレストランの海外支店、
この2パターンしかありませんでした。
他業種からレストランに参入したのは、当地ではオレが初めてでした。

既存のレストラン、お店とただ単に競争することは絶対にしたくない、
逆に今まで誰もやっていない事をしたかった、ということで、知恵を絞り
日本で当時流行り始めていた“吟醸酒”を取り寄せた店、酒蔵【くらま】を
目抜き通のオーチャードに開店しました。

北は北海道、南は九州まで酒蔵に訪れ、日本でも滅多に手に入らない
幻の吟醸酒などを200種類以上取り揃えました。
仕入れ交渉のため各地の酒蔵に訪問すると、
どれ位酒が飲めるのか?どんな飲み方をするのか?などを試験のごとく
試されたりして大変に苦労しました。

最終的には、手塩を込めて作られた吟醸酒の品質を保つ為に
温度を5度に設定したコンテナ船で輸送出来る、
海外引越専門業者である事が
彼らから認められた要因だと思っています。

慣れない海外での仕事疲れ(本社との交渉事等による)を
日本酒で癒してくれる、ということで、
海外で活躍する企業戦士の間では伝説の店として
有名になっていました。

10年程度店を開いていましたが、残念ながら入居していた
ビルディングが隣のパラゴンと併合される為、立ち退きを迫られた事、
店の管理が大変な事、等々で、止むを得ず閉店しました。

しかし現在、黒板で囲まれた超高級日本食レストランを開店する
プランを温めています。
其の節はご贔屓を賜りますよう、何卒お願い申し上げます。

2007年05月29日

オランウータンビール

多くのビジネスを試みました。当然ながら大きな失敗もありました。

吟醸酒を日本各地から取り寄せた酒蔵レストランを経営しながら、
『鑑定利き酒士』の称号を取り、さらにお酒の製造方法も
学んで行く内に漫画の『夏子の酒』にも影響され、
自分でも酒作りをしたくなりました。

でも常夏のSINGAPOREでは、米の収穫を含め不可能な事ばかり。
そこで、欧州で人気があり、まだ日本では解禁になっていなかった、
『地ビール』『マイクロブルワリー』を考え、投資家を集め、
カルフォルニアから醸造士を獲得して
『ZOUK(ズーク)』(シンガポールで一番有名な老舗大型クラブ)
の隣のレンガ作りの倉庫に地ビールの製造工場とビヤホールを
作りました。

地ビールのブランドは、東南アジアを連想させる為、
またオレの名前をどこかに入れたかったので、
森の人、『オランウータンビール』としました。
地ビールの発想は、良かったのですが既存の大手ビール会社との
問題、政府とのライセンス交渉(新規ビジネスである事、酒税問題)
等に時間を費やしました。

丁度日本でも規制緩和でマイクロブルワリーが出来るようになる
寸前でしたので日本各地からも注目を集め、調査に来れれた
吟醸酒酒造メーカーの方々もおられました。
冬場のものである、日本酒製造では、若手を年間雇用するのは
難しい為、夏は地ビールの製造、販売、冬は日本酒の製造、販売と
多角化を考えるメーカの人たちで、オレがビール会社を設立している
事に大きく驚かれオレの鼻も人一倍高くなった様な気がしていました。

でも月日が経つにつれて株主、取締役との意見の相違が目立ち始め、
ビールを製造、販売まで成し遂げましたが、資本金を食いつくし
多額の負債を抱えてしまいました。誰も追加の資本金を入れないので
とうとう家賃を滞納して工場とビヤホールが、閉鎖されてしまいました。

お陰で世界一高いビールを飲んでしまいましたし、ビール製造の夢も
見事にビールの泡と一緒に消えてしまいました。

それ以来、『他人と一緒に会社を起こす気になれない後遺症』が
残っています。

2007年05月30日

Hello Singapore

海外引越以外の多くのビジネスを手がけましたが、
CROWN・GROUPの第二の柱は、出版、メディア事業です。
最初に出版物を出したのは、
日本語電話帳、生活情報誌『HELLO SINGAPORE』です。

作る動機は、近所に住み、家族付き合いをしていた
日本からの駐在員の奥さんの自殺でした。

当時は、日系製造メーカの進出が多く、地方の工場から
SINGAPOREに転勤してきた人が多くいました。
でも海外で生活する為の情報が、全くなく先輩からのアドバイス、
日本人会や日本人学校から情報しかない状態でした。
情報不足によるトラブル、例えばマレー系の子供に可愛いねと言って
頭をさする事や左手で物を渡すなど。・・・色、数字など
色々なタブーを知らずに人間関係をつぶしてしまう事が多くあり
ノイローゼになる人達も多くいました。

友人の奥さんの自殺の動機も海外生活に馴染めない事でした。
そこで出版業界に居た人や主婦の人々にボランティアの協力を求め
日本語で調べられる電話帳とありとあらゆる生活情報を満載した
『HELLO・・・』を作りました。

企画書は、A4サイズの1枚でしたが、多くの人に賛同を得て
広告収入もそれなりに集まり、出版記念パーティをした時に
協力して戴いた人々をステージに上ってもらい一人ひとりの名前を
呼んでいるうちに大きな涙が出てきました。

今でもHELLOは、海外生活のバイブルになり台湾、香港、北京、
上海、華北、華南、タイランド、マレーシア、インドネシア、
そして今年、ベトナムまで出来上がりました。

来年には、この各国版を日本人以上に海外駐在員が増えている
韓国人の為に韓国語に翻訳して韓国語バージョンを、
韓国のパートナーと一緒に作ります。

此れで世界シリーズや他国語翻訳版に弾みがつきました。
此れも海外引越を通じ、皆の困り事を一つ一つ解決して来た
賜物と思っています。

2007年06月09日

秘密の魔法

A4サイズで1枚の企画書から始まったハローシリーズですが、
さすが!?素人の集まりで出版後、数々の間違いが有りました。
誤字、脱字から始まり、意味不明の言葉や曖昧な表現等・・・。
致命的だったのは、広告主の電話番号の入力ミスで
何の為の電話帳なのか?と広告主からコッピドク叱られました。
又、原稿作成時と出版時の時間的落差で記載情報が
正しくないページも出てきました。

そこで 情報の信頼度を高める為にも正誤表、訂正版を
出す事にしました。ただ、「間違いでした、スミマセン!」的な
物は出したくないので新規の情報と併せて生活の知恵的な事も
取り上げました。
実際に出来上がった『ハローシンガポール』を見て
幸いな事に、出版後、契約出来なかったお店・会社等から、
即来年度の契約を頂きました。

そこで 正誤表、訂正版に広告を依頼するとこの分まで
契約を戴き、8ページの物が出来ました。
その後、新規の顧客がどんどん増え、
内容の充実させて行き、此れが季刊で出版する様になって
隔月(タイトルは、マハリク・マハリカ)、
そして月刊の無料誌のJ-PLUSまで拡大して行きました。

錯和
から出たビジネスですが、常に正しい情報を的確に
敏速に伝える事に赴きを置いていた事で、新たなビジネスへと
展開していく経験をしました。

季刊誌のマハリク・マハリカのタイトルは、秘密のアッ子ちゃんが
好きだった当時の編集長がごり押しでつけた名前ですが、
A41枚から500ページを超えるハローシリーズ、
12都市まで広がり、韓国語まで出版出来たのは、
アッ子ちゃんの「秘密の魔法」が効いたかも知れません。

2007年06月11日

一歩一歩

魔法の呪文が、効いたお陰で月刊誌も上手く軌道に乗り
MALAYSIAでもKL唯一の月刊誌(パノーラー)を
立ち上げました。
更にINDONESIAでもJKTで初めての月刊誌(さらさ)も
出版しました。

そうこうしている内に他社が、無料週刊紙をSINGAPOREで
立ち上げるとの噂を聞き、総合メディア会社を目指しているオレに
とっては、黙って見ている訳には行きませんでした。

過去に数社が、無料週刊紙を出しましたが、何れも廃刊してしまい、
週刊紙の難しさ、継続させる事の難しさを十重に感じていました。
しかし日本のスポーツ紙と提携してスポーツ、芸能NEWS
コンテンツを毎週配信してもらえば、紙面は何とか繕えると
考えまし