2011年2月アーカイブ

40年前の伝説 その一

同期会で昔話に花が咲きましたが、誰かが俺の伝説を言い始めました。
よく40年もの前の話を覚えているな?と関心をしました。

俺のおもろい話、伝説は、
毎日、自宅の京都から勤務先の大阪淀屋橋まで乗っていた通勤電車、
京阪特急電車が舞台でした。

その一:特急電車緊急停車事件

会社がある淀屋橋駅から特急電車は京橋まで各駅に止まり、
京都の四条、(終点三条駅)まで約40分間は、どこの駅にも止まりません。
(特急だから当たり前か......)
その頃の京阪電車内には、全くトイレがありませんでした。

仕事を終え、同僚達とお酒を飲んだり、業社さんからの接待で会食したりして、
帰りの電車に乗る前は必ず淀屋橋駅のトイレで
最後の仕事を終えるのが習慣でした。

しかし、夏にビヤガーデン等でビールを飲みすぎたりした時は、
この40分間は苦しみとの戦いです。
一度は、列車と列車を繋ぐ連結蛇腹で我慢が出来ず用を足したり、
最終車両で車掌さんに頼み込み車掌のドアーを空けてもらい、
車掌が俺の腰を抱えそこから放射したりもしました。
もちろん最初は、車掌さんは
お客さんもう少しの我慢ですからとか色々と説得されますが、
もう垂れる、ちびり始めた、車両に水溜り、洪水に成るぞと叫べば、
しぶしぶ協力してくれました。
当時、大阪と京都の中間点の京阪葛葉駅近くは、
高架工事などしており夜遅くから路線工事していました。

工事区間を徐行運転する特急電車の車掌室から
放物線を描きながら小便する快感は言葉で表すことはできず、
夜間ライトで照らされた線路で待機する工事関係者が、
呆れた顔で口を開き俺の一物を眺めて居た事は、今でも忘れません。

本当に悪い酔っ払いでした。

でもさすがに大の方は、小の時のようには行かず、
特に食べ物にあたったり、お腹の調子の悪い時は、どうしようもありません。
とうとう特急電車を停車の予定のない駅に緊急停車させた事もありました。
俺は、当時から演技力と説得力、交渉力が、人一倍強かったんだと思います。
特急電車を緊急停車させたその翌日、
会社の総務部から呼ばれ日立製作所の恥を曝さない様にと強いお咎めがありました。
さすが、総務部。
社員の動向をつぶさに掌握しているという驚きと、
次回からは、社員バッジを外そうと思いました。

日立製作所46同期会

過日は、資材部のOBにSINGAPOREでお会いさせて戴きましたが、
1月中旬に日本出張時に併せて(無理やり俺の日程に合わせて開催)
昭和46年入社同期会新年会に出席しました。

30名以上の同期会ですが、
今では少なくなり(退社、結婚、他界......)
20名弱程度が参加してくれました。
(同期ではなく後輩の2名も特別参加。)

多くは、17時前から集まり酒盛りが始まりました。
白髪、頭髪の薄くなった者や禿げ頭、中年太りと
40年前とは容姿が大幅に変わった者も居ましたが、
そこは同期の繋がり一瞬にして昔に戻りました。

わざわざ垂れ幕まで用意してくれた感激で、
酒の飲むピッチが、どんどんと上がりました。

 
最初の話題は、健康の話で持病が、どれだけあるか?の自慢話、
大病の話から定年退職、年金などとなり、
しまいには糖尿病のため、
インシュリンを腹に打つまで見せびらかしたつわものが居ました。

現幹事長が、森の前で そんな話をするな!
おもろい(関西弁)話題に変えろの一言で 昔話に花が咲きました。

3年間勤務した日々は、デスクのじっとしていられないタイプなので
時間があれば社内を廻り同期の者達と休暇は、何処に行こうか?

春はハイキング、夏は、海べでキャンプ、
秋は、スポーツ、冬はスキー、クリスマスパティーと
組合青婦協の仕事ばかりしていました。

同期達の田舎にも行き、泊めてもらったり泊めたり(京都祇園祭時期など)
と家族共、楽しい時を過ごしました。

そんな時期が過ぎて俺が、渡米する為に退社した時の話や、
渡米するために京都駅に皆が見送りに来てくれた話になり、
変わらぬ友情に涙が溢れ、小便がしたいと言いトイレで男泣きしました。 

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日立製作所 OB

素晴らしき先輩達に今でも昔と代わらず可愛がって戴いて居る事に感謝、感激です。

株式会社日立製作所には、
京都の洛陽工業高校を卒業して入社しました(ブログ2007年4月3、4、8日参照方)。
その資材部の先輩の一人が、SINGAPOREに出張するので夕食でもとお誘いを戴きました。

日程をお聴きすると、
新しく国際線のオープンした羽田空港から深夜便でSINGAPOREに着き、
ベトナムに1泊された後、再び深夜便でSINGAPOREから羽田空港に帰るという強行日程。

超多忙にも関わらず、わざわざお時間を割いて、夕食にお招き戴きました。
 
日立グループの方々や当地に駐在されている方々も含めての夕食会で、
たかが3年間しか勤務していない俺は最初は、居心地が悪かったのですが、
昔話に花が咲き始めると、日立製作所に40年も勤務したかの様に
日立の長所、短所、直近経営方針まで、
美味しいお酒も混じり偉そうな事を毒舌してしまいました。

中井川先輩:この場を借りてお許しを!

帰宅後、もし日立製作所を退社せずにサラリーマン生活をしていたら俺は、
どんな生活、人生を歩んでいたのか?
資材調達を経験したので、
日立に通う優秀な営業マンと日々価格交渉を通じて
どんな営業マンが素晴らしいのかを知りました。

それまでの自分は、売るだけ売って、
責任を他人に押し付けたり、GIVE &TAKEの本来の意味を理解しないかったり......。

誰の為に仕事をするのか?
会社の為、己の為、家族の為に?

納期の重要性、時間と戦い、何があっても絶対資材を購入せねば成らない事、
安値で購入ではなく、価格安定と長期安定調達、
WIN WINのビジネスモデルなど、
体の芯まで染みついていたので、
26、27歳の境目で起業できたのだと思っています。
走馬灯の様に色々な事を思い出し、考えていると空が明るく成って来ました。
1000%間違いなく、絶対に、日立製作所・資材部に勤務していなかったら
今の俺はないと、確信してます。

とは言え、
日立製作所勤務をしていたコネを利用して仕事をもらった事もないし、
31年前に起業してから、それだけは甘えずに頑張って来ました。

日立製作所に勤務した人はさすが違うなと言われたい、
日立の大看板を汚したくない、
との思いでビジネスに励んで居るのは、今も変わりません。
だからこそ皆さんと永いお付き合いをして頂いて思っています。

本当に素晴らしい諸先輩に育てられ、
温かく見守って戴いている事に言葉で言えないものを感じています。
あらためてSINGAPOREからお礼を申し上げます。

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危険地帯 05

昨年の10月24日に右腕を3箇所骨折してから早3ヶ月も過ぎました。
昨日レントゲン写真を撮り、ドクターと一緒に写真を見ましたが、
2箇所は完全に骨が繋がり、残る1箇所もほぼ繋がている状態でした。

あと10日かもすれば、58歳になる人間としては、ドクター曰く驚きの回復力との事。
俺の野性力も大したもんだと一人で悦に入っています。
明日から右腕の筋トレを開始し、4月にはゴルフが出来るように頑張るぞ!
でも13センチのチタンプレートと螺子12本、
ワイヤー2本は、年内は体内に留まったままです。
この3ヶ月、右腕が使えない為、人一倍大きい右上腕の筋肉は、
痩せ男の上腕状態になってしまいました。
ゴルフも一時棚上げ中止し、パソコンのメイルは左指1本で打ち、
銀行の小切手のサインも変更し、食事も左手でお箸を使う訓練を行い、
ジムでは左手のみ筋トレを行い、
ワイン等を飲むのも左手、女性と遊ぶのも左手でした。
このお陰で 懐石料理も左手で全く不自由しなく食べられ、
食事のスピードが、遅くなった為か、食事の量も減り、
お陰で体重が、2.5KG程減少しました。
さらに左手をふんだんに使用した為か、
なんとなく右脳が鍛えられ感覚や直感力が鋭く成った様な気がしています。
また、どんな不幸な事、事件にも遭遇しても 最終的に死ななかった事に感謝し、
毎日毎日笑顔で過ごせる様に成り、五体満足、
健康に喜び、傲慢さも消え、
他人の痛みも今まで以上に感じ取れる様な男に成りました。
此れも己も骨を折り血を流したからこそ、体験出来た事です。
こんな試練をくれたアラー神、仏か八百万の神さんに有難うと言うこの頃です。