2010年6月アーカイブ

母の癌手術も無事終わり、来週には元気よく退院できる様になりました。

ドクター曰く「今まで数多くの手術をしてきたが、手術室に入る前の患者で俺の母親ほど穏やかな表情している患者に会ったことがないとのこと」。普通なら恐怖や心配で何も言えない患者がほとんどなのに、手術をする前にドクターと看護婦さんたちに「よろしくお願いします」と笑顔で言ったそうです。
お陰で手術でも体が膠着することもなく、出血も少なく、予想のほか順調にでき、明るく楽しく(?)手術が完了。
手術後も毎日毎日多くの人たちがお見舞いに来て、他の患者さんたちに羨ましがれるほど。
リハビリでも笑顔を絶やすことなく、男性患者が大声を出したり、看護婦さんに無理難題を言うのをたしなめたりしているそうで、病室の雰囲気が変わったとまで言われました。

母は、歴代の首相や母が好きな落語家の桂文珍と俺が一緒に撮影した写真などを家に飾ったりしていますが、先日母の部屋から俺が30年前に送った誕生日記念のカードを見つけました。
それは、SINGAPOREで会社を設立し、一国一城の主となった証として、「社長」と記載された会社の名刺の裏に誕生日のメッセージを書いた物です。変色していましたが、とても大切に保管してありました。
俺の夢の実現のスタートを祝いながら、無事健康で過ごせるように母が日本から祈っていたことがよく分かり、涙が止まりませんでした。

偉大で尊敬すべき母

母が本当に偉大であると思ったことは、他にも沢山あります。

俺の人生の節目節目で、母親の言葉が俺の背中をドンと何時も押してきました。

俺が工業高校を卒業し、日本を代表する大企業の日立製作所に就職した時、親父は近所の人達や親戚に大いに自慢していました。
でも俺は3年後に大企業の学歴社会構造に嫌気がさし 日本でのサラリーマン生活をやめUSAに留学しようと思いました。
資金など色々と悩み続けていた時、母親に「この頃何を悩んでいるの」と聞かれ、何故悩んでいることが分かったのか?と驚きながら、日立製作所を退職し、京都、日本を離れてUSAに行きたいと思っている事実を言うと、てっきり大反対すると思うっていたが、「お前はまだまだ若いから冒険をしなさい!頑張屋のお前なら、海外でも何処でも生活できるはずや! 日本男児なら海外で飛躍しろ! 応援する! お父さんには今言ったら絶対反対するから、日本を離れる2週間前くらいに言ったほうがいい」とまで言ってくれました。

その言葉で悩みが吹っ切れ、上司に退社届けを提出できました。

USAに着いてからも毎週毎週、母から応援の手紙が届いていたので なんら誘惑にも負けずに生活できました。

VISAの問題で USAから夢の凱旋帰国が達成できずに帰国し、再度他の国で挑戦しようとSINGAPORE行き決めた時も、親父は「お前が渡航するのはまだ早い。無理と言ったやろ! 京都でこれからも生活して地道に生きろ」と言いました。

でも母親は、1回ぐらいの失敗でくよくよする息子とは思っていないので、どんな事があってもSINGAPOREで夢の現をしなさいと言ってくれました。
そしてSINGAPOREに来て、妻との結婚を決心した時に両親をSINGAPOREに呼びましたが、既にその時、母親は何かあったと確信していました。

昔のPAYA LEBAR飛行場に、妻と一緒に両親を迎えに行きました。
到着後、初のご対面となった時、親父は妊娠腹のマレー人女性を見て、驚きで目を丸くして一言も発せず立ち尽くしていましたが、母親だけはすぐに駆け寄り、妻のお腹をさすり「おめでとう、おめでとう!」と祝いの言葉を掛け続けてくれました。
GERAT, ADMIRABLEな母親です。

俺の84歳になる母親は、昔ながらの京都の衣笠(金閣寺の近く)に、森家(親父は養子)の長女として生まれ、当時としては良家の娘しか行かなかった高等女学校を卒業しました。
俺の祖父は、写真でしか見ていませんが、髭を蓄え芸術家気取りで沢山の絵を書いて(俺は幼い時に箪笥から引き出して見ていました)いても何不自由なく生活していました。
家には「おなごしさん」という、今でいうメイドが住み込んでおり、母親の趣味は料理とクラシック音楽で、正真正銘の良家の長女として育てられましたが、18歳になる前に両親が結核で一度に亡くなり、2人の妹と突然社会で独り立ちしなければならなくなりました。

不動産や資産は沢山あったのですが、未成年のため、親戚・縁者達が、長女の俺の母親に相続させず、親戚が資産管理してしまいました。
その結果、母が成人した時には財産が全て食いつぶされて無くなっていました。
そうとは知らない俺の親父は、森家に婿入り養子しました。
俺が幼い時、親父は大酒の飲んでは、森家に財産がたんまりあると思い、自分の姓を捨てて婿入り養子になったのに......と、いつも森家に騙されたとぼやいていました。
母親が不遇な運命を背負い生きて行かねばならない人生が、この時から始まりました。
それでも愚痴を言わずに慎ましやかに生活していましたが、俺が小学校4年生の時、母親は重い腎臓病を患い、片方の腎臓を摘出する大手術をして一命と取り留めました。
入院生活が4カ月以上も続き 俺の2人の姉は中学校2年生と小学校6年生で炊事、洗濯を母親代わりに行い、俺は幼稚園児の妹の世話をしていました。
そんな時は不幸が不幸を呼ぶもので、親父も仕事を失い、高い手術費・入院費負担に育ち盛りの子どもたち......。とうとう森家は、どん底の生活を強いられました。

子どもの給食代なども支払うことができず やむをえず父親は生活保護を申請して何とか生活ができましたが、学校では「給食のただ食い」(2人分の給食! 幼稚園に通う妹のためにパン等を持って帰っていました)などと言われて惨めな思いを沢山しました。
学校遠足があった時は、数個のおにぎりだけの弁当。親父の強い握力で作ったおにぎりは、喉に詰まり食べられなかった記憶が、今でも残っています。

少しでも家計を助けたいのと同時に、自分の小使いが欲しい、好きな物を食べたい、買いたいと思い、俺が新聞配達のアルバイトをしたのはこの頃からです。

幼い子どもたちを家庭に残し、母親としての務めもできず、困難な暮らしをしながら、闘病生活していた時の母親の心境は、幼い時には解りませんでしたが、自分で子どもを持った時に初めて理解でき、困難なことに立ち向かっていた母親を心から尊敬しました。

母親は大病を患いながらも、いつも笑顔を絶やしませんでした。台所や物干し台からクラシック音楽を口ずさむ母親の姿は、脳裏から離れることはありません。