購買課には、大卒は、経済学部、高卒は、商業系の人たちばかりで
工学部や工業高校卒の課員はいませんでした。
当時の課長の言葉によると、「技術の日立製作所なのに機械や技術に
強い課員が居ないのは問題だ。そこで君を採用した。」と言う事で、
毎日張り切って仕事をしていました。
JIS規格やISO規格を覚え、メーカの技術者に色々とお教えて貰ったり、
取引先の工場見学も頻繁に行きました。
素材の知識を増やす為、鉄鋼品や非鉄金属を発注していましたが、
新金属のチタンも買っていました。軽くて強く耐食性に優れた
この金属は、化学プラントの熱交換器等に使われていました。
只、高価な為、無垢でタンクを作れない為、ダイナマイトを使い
爆発させて他の金属と張り合わせる工法や真空溶接などあり
新金属に対する知識と技術の理解力が必要で、
オレが正に適任者でした。
宇宙開発でロケットなどに使われていた貴重で高価な新金属の
チタンが、今の様にゴルフのドライバーに使われたり、
眼鏡のフレームになるなんて夢にも思っていませんでした。
あっと言う間に1年が過ぎ、2年目を向かえた時に将来を考える事件に
遭遇しました。この事件により、3年間勤めた日立製作所を退社し
21歳で米国に渡米する事になり、
さらにその後、SINGAPOREに来るきっかけにもなるとは、
チタンと同様、夢にも思いませんでした。
ところで、科学記号で鉄はFe、アルミはAl、と記載しますが、
チタンはどう表記する?
旅行会社で働き、ツアーコンダクターになりました。
ディズニーランドには多い時は、日に3回も行く事もありました。
ロスの飛行場に日本からの旅行者を迎えた後、
市内観光してホテルにチェックインし、翌日にディズニーランドに
連れて行き、その翌日はサンディエゴや米国との国境線を超え
メキシコのティファナにも行き、その翌日にグランドキャ二オン、
ラスベガスに行く、というのが日課でした。
翌年が米国の建国200年目の為、色々と米国の歴史を勉強しました。
不思議だったのは、何故たった200年で世界NO.1の国になったか、
ということです。オレなりの理解は、
東海岸から西海岸まで西へ西へと開拓者が、
ゴールドラッシュで移動した事が大きな転機だったと言う事です。
金の鉱脈を求め駅馬車に乗り、インディアンと戦い、
ロッキー山脈まで超えて来たバイタリティーには驚かさせます。
このゴールドラッシュで今も残っているのが、
その比の作業服だったジーンズやホテル等です。
鉱業は無くなりましたが残ったのは全てサービス産業です。
アメリカエキスプレスも昔は金の輸送が原点ですし、
物の輸送から旅行小切手やクレジツトカード、
そして電子マネーと変化しています。
工業高校機械科の卒業ですが、工業関連に携わるよりサービス産業に
携わる方が、大きな資金も技術も要らないので
独立して社長になるのなら絶対にサービス産業だ!と
この時に確信しました。
短いアメリカ滞在でしたが、この時代の経験が
今のオレの血、肉、頭脳になっているのは間違いありません。
SINGAPOREを第二の人生場と決めた事は、
つくづく幸運だ!と思う此の頃です。
もし60年代の東南アジアでは頭一つ飛び出たフィリピンに行って
いたら間違いなくマルコス大統領・イメルダ婦人・マラカニヤン宮殿の
官僚達と上手く付き合い、日本のODA関連を取り仕切る裏役に
なっていたと思います。
又、東西の距離にするとアメリカ合衆国と同じ距離のある大きな国、
インドネシアに行っていたら、これまたスハルト大統領や建国の父、
スカルノ大統領の4番目の奥さんのデヴィ夫人と共に、
あの手この手で彼らに近ずき政権を担う官僚と大きな利権ビジネスを
していたと思います。
でもいずれの国も時の政権が変わればそれまでで、オレも元大統領、
ファーストレディー達と一緒に藻屑と消えていたでしょう。
それ以前に商敵から黒い噂を流されこの世から消えていたかも
しれません。
SINGAPOREは、ゴミ一つ落としても厳しく罰され、
法律も完璧に整っているので、ビジネスは王道を歩むしかありません。
近道をしないでこの厳しい王道を一歩一歩、歩んで来た事が、
他国で色々と応用出来き、他の日系会社より一歩先に海外進出を
果たせたとも言えます。
未だにフィリピンには、会社を設立していませんが、時々マニラに
行くとやっぱりSINGAPOREで起業した事で今日のオレがある
と確信しています。