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2007年04月 アーカイブ

2007年04月02日

学校の成績

朝からバイトをしていましたので、小学校から高校まで、
2時間目までは、机の上で睡眠をとり、
3時間目の後半で目が覚め、
4時間目で食欲を戻して昼食を食べ、
5時間目で軽く昼寝してベルの音で目を覚ます、というのが日課でした。

体育の時間だけは、飛び回っていましたが、それ以外は。。。。
勉強を全くしていなかったので進学は、
工業高校でないと無理、と担任の先生から言われていました。
勿論お金が無いので私立の高校には、行けないので。


中学3年生の後半から勉強して何とか市立の工業高校に合格しました。
高校生になっても朝のバイトは、継続していましたので
朝寝、昼寝の日課は変更なしです。


特にボート部では、主将という立場、それから
まだ一般的でなかったサーキット・トレーニングや
自家製バーベルを使い筋力トレーニングをしていた、
また滋賀県にある琵琶湖、瀬田川まで汽車に乗り移動していた、
という諸々の事情により、帰宅時間は毎日9時半位(冬季以外)でした。
休みも毎年、正月の2日だけでした。


そんなオレが、超一流企業の日立製作所に入社出来たのも
最高の内申書を書いて貰ったからです。
数学、国語、英語などの基礎科目以外の機械専門科では、
担当の先生や他の先生が、試験の前にこの辺を良く勉強しとけと
こそっと教えてくれていましたので成績は4か5でした。
恥ずかしい話、英語は全く出来ず万年、運動会の行進曲状態でした。
(掛け声で1、2、1、2、。。。)


工業高校の先生は、他の高校に異動する事も無くその高校で
退任するのが当たり前でした。
オレが、ボート部を近畿で有名にしたという事を気に入ってくれた、
と思っています。


ビジネスでも如何に応援者を多く作るかです。
真面目にこつこつと一生懸命、努力している事は、
誰かが見ていてくれます

2007年04月03日

技術の日立製作所

技術の日立製作所の入社試験は、
筆記試験と面接試験がありました。
面接試験は、筆記試験の後にあり試験日が、
丁度インターハイの試合日と重なっていました。


上位入賞を皆で狙っていたので主将兼コックスのオレが不参加では、
その夢も経たれる、と思い、面接官に事情を説明して面接日を
別の日に変更して貰いました。
入社希望者の一方的な理由で面接日を変えるのは一流企業では
有り得ませんが、当時の担当者が偶々同じ京都の出身だったので
無理を聞いてもらえました。


万一希望が叶えられなければ、他社に入社する気でいましたので
その迫力と、チームの為、学校の為、郷土の為、という心構えが
気に入られたのだと思います。
こいつは、会社の為、組織の為なら何でもすると思われたかも
知れません。


入社が決まり、配置されたのが、日立製作所、淀屋橋にある
大阪営業所でした。京都から京阪電車で自宅から90分程度
掛かりましたが、琵琶湖に通ってた事を考えると
苦にはなりませんでした。


研修期間から、リーダ的な存在で面接試験日を変更させた男として
既に知れ渡っていました。直ぐに同期会を発足させ幹事役をしました。
研修後、配置されたのが購買課です。東京の本社と大阪の購買課が、
全国にある工場から依頼され色々な資材を調達する部署でした。


課に配属された数週間後に工場に行ってどんな物を作っているのか、
更に研修が行われました。同期はまだ見習い的な仕事を
していましたが、当時の課長に気に入られ、工場廻りしてから即、
鉄鋼品の担当者になりました。当時は鉄は国家なりとの言葉を
言う人いるぐらいに基幹産業で、一流の大学を卒業した大手商社の
係長、中堅商社の課長、次長、中小メーカーの場合は、
取締役や専務が私との交渉人でした。


そんな人々に高卒の新人が、
負けるものかと張り切って仕事をしていました。

2007年04月04日

購買課

購買課には、大卒は、経済学部、高卒は、商業系の人たちばかりで
工学部や工業高校卒の課員はいませんでした。
当時の課長の言葉によると、「技術の日立製作所なのに機械や技術に
強い課員が居ないのは問題だ。そこで君を採用した。」と言う事で、
毎日張り切って仕事をしていました。

JIS規格やISO規格を覚え、メーカの技術者に色々とお教えて貰ったり、
取引先の工場見学も頻繁に行きました。
素材の知識を増やす為、鉄鋼品や非鉄金属を発注していましたが、
新金属のチタンも買っていました。軽くて強く耐食性に優れた
この金属は、化学プラントの熱交換器等に使われていました。
只、高価な為、無垢でタンクを作れない為、ダイナマイトを使い
爆発させて他の金属と張り合わせる工法や真空溶接などあり
新金属に対する知識と技術の理解力が必要で、
オレが正に適任者でした。

宇宙開発でロケットなどに使われていた貴重で高価な新金属の
チタンが、今の様にゴルフのドライバーに使われたり、
眼鏡のフレームになるなんて夢にも思っていませんでした。

あっと言う間に1年が過ぎ、2年目を向かえた時に将来を考える事件に
遭遇しました。この事件により、3年間勤めた日立製作所を退社し
21歳で米国に渡米する事になり、
さらにその後、SINGAPOREに来るきっかけにもなるとは、
チタンと同様、夢にも思いませんでした。

ところで、科学記号で鉄はFe、アルミはAl、と記載しますが、
チタンはどう表記する?

2007年04月08日

退社の理由

日立製作所を退社した理由は、3つ有ります。
1)学歴
今でこそ何処の会社も実力主義、成果配分などと言っていますが、
30年以上の前は、終身雇用、学歴主義の世界でした。
まだ若かったオレは、工業高校しか卒業していなくても将来、
天下の日立製作所の社長にはなれないかもしれないが、取締役程度は
絶対行ける!と思っていました。オレの夢を先輩達に話すと
笑い飛ばされてしまいました。
彼ら曰く、取締役どころか、大卒の“おもり”をした後、
10年もしないうちに子会社、孫会社に転属されそれでお終い。。。。
確かに周りを見廻すとそのとおりだし、先輩達と飲みに行くと
会社の愚痴と上司の悪口を延々と赤提灯の下で話している姿しか
見えませんでした。

2)派閥
それなら労働組合の幹部、書記長や組合委員長になれば、
社長と対等に話が出来る!と思い、組合活動に力を入れていました。
青婦協のトップまで行き、全国弁論大会にも中部代表として参加し、
皆から優勝や!と言われるぐらい、内容も態度もピカイチでした。
がしかし、優勝したのは、労働組合のお膝元、日立工場の人間。
そこで労働組合にも派閥があることを知りました。
組合委員長に就任、その後、電気労連の委員長、更に社会党から
出馬して国会議員へ!という夢はあっさりと消え去りました。

3)会社というブランド
ある取引先での出来事。。。
この取引先に対しては、クレームがかさみオレの父親みたいな
年齢の専務に対して、改善がなされないので毎日大声で怒ったり
叱ったりしていました。
そして遂にオレは、
『長く取引を戴いたが、こんな事では取引を中止します』と
伝家の宝刀を抜く言葉を発しました。
それでも専務は、若輩のオレに土下座するぐらい謝りました。
その後、その専務に接待された時に、彼が酔いつぶれて発した言葉は
今でも忘れません。
『こんな若造に嫌味を言われ、暴言を吐かれ、プライドも叩かれても
我慢しているのは、仕事が欲しいから、自社の社員を食わ為。。。。』
『日立製作所の森幹雄であって、森幹雄の日立製作所では
無いないんだぞ。。。』
購買と言うポジションに甘え、有頂天になっているオレが、
その言葉で叩きのめされてしました。日立のオレ、購買課のオレ
であるから皆なペコペコし、笑顔で接してくれているが、
誰も“森幹雄個人”としてのオレに頭を下げて居るわけではありません。オレは何者?会社の名刺から日立製作所のロゴと会社名と取った
森幹雄は何者?購買課でなく反対に営業課に居たら立場は逆転?

サッカーの中田英俊よりも何十年も早く、自分探しの為、
米国に行く決意をし丸3年間お世話になった日立製作所を退社しました。

3年坊主の伝説社員

日立製作所で3年間しか働かなかったオレですが、
退社したいと辞表を上司の渡すと皆が止めてくれました。
部下が退社する旨が有る時に
それを止めるのは3つの理由があります。

1)本人が退社する事で業務が滞る場合。
誰かがその仕事を引き継ぐ必要があり、
また専門的な仕事を担当していればいるほど即、
上司や同僚に負担が掛かるので退社を遅らす、又は
次の候補が見つかるまで退社する事を止めます。
更に急に退社する部下が居ると言う事は、本人の上司が、
その上司から管理能力不足と言われてしまう、
つまり上司本人自身に罰点が付く事を嫌う、と言う要因もあります。

2)自分を肯定する場合。
退社する理由は色々とあるだろうけれども、上司である俺も辞めたい、
だけれども家族も居るし家のローンもあるし、世間体も。。。。。
退社する者を妬むと共に、未だにその会社にしがみついている自分を
肯定する場合です。その際は「ほかの会社に転職しても何処も一緒!」
と説得されます。

3)本人の事を見極めている場合。
退社しようとする部下の思いと能力をきっちり判断し、一時的な思い、
または感情で退社しようとしている場合は部下を諌めます。
退社して次の目標が定まらない状態なら必ず退社を止めます。
しかし、場合によっては本人の将来を考えて止めるどころか
応援する側に廻る事も有ります。

オレの上司や元上司に、退社してアメリカに渡り留学する事を明したら、
それは良いことだと薦め、羽田空港(まだ成田は港していませんでした)
まで元同僚達と一緒に見送りに来て頂きました。

だからオレは、今でも退社する人を押しとどめませんし、退社を理由に
条件交渉する社員は即、退社せよ!と言います。
色々な会社を渡り歩き、その度に上司が、退社を認めてくれたからこそ
今のオレが在ります。

昔の職場は、本社に統合され廃課になっておりOB会も
開催されなくなりましたが、今年オレがSINGAPORE滞在30年の節目に
なるということで、元上司が発起人となりOB会を開催してくれ、
祝ってくれました。

たった3年間しか勤めていませんが、大勢の人に参加して戴き、
皆が一番印象に残る伝説の社員だ!と昔話に花が咲き、
嬉し涙が大量に流れ出た日でした。

2007年04月10日

憧れの男

サラリーマン生活を辞め、渡米したのも1冊の本に影響された為です。

その著者は、ロッキー・青木氏。

彼はローマ・オリンピックでレスリングに出場、 その帰路、
ニューヨークに滞在し、スラム街で、紙で作った日本傘を 付けた
アイスクリームを大ヒットさせ、その儲けで 日本食レストランを開店、
火鉢でステーキを焼く“元祖鉄板焼きステーキ”の原型を築き、BENIHANA OF TOKYOという 名前のレストランを米国だけでなく
世界中に作り、遂にはタイム誌の 表紙にまでも掲載された男の、
サクセス・ストーリーです。

この本を何百回も読み返し、こんな男になりたいと憧れ続けました。
実際、オレはアメリカで、この本に出てくる何十倍の苦労もしましたが
そんなときにも大きな支えになりました。

残念ながらアメリカに居た時には、貧乏生活で最初の1年間は
一度も日本食を口にした事はありませんでした。
勿論、一度も“ベニハナ” には行けませんでした。
滞在2年目になり、初めて食べられた日本食レストランは、
“ベニハナ”に似た名前の「紅馬車」と言う、韓国人オーナーの店で、
そこで『きつね丼』を食べた時は、涙が出ました。
当時は何時もホットドッグやハンバーガーを食べていました。
日本のモスバーガーの創業オーナーが、その味を真似た店にも
良く通っていました。

ロッキー・青木氏は、成功後スピードボートや気球に乗ったり 華やかなに過ごしましたが、離婚を何回もしてその度に慰謝料を 取られたり、
騙されて店を他人に盗られたりと波乱万丈の人生を 過ごしていました。
10年程前、バンコクで“ベニハナ”が開店した際にお目にかかった 時には肝炎を患い、オレの理想の男は、見るも無残な状態でした。

幾ら華やかな人生を送っても歳を取ってから、枯れた花のように ならない様、もっと努力をしなければ、と再認識させられました。

人間、棺桶に片足を入れた時に、俺の人生は楽しかった、面白かった、 と胸を張って言いたいと思っています。

2007年04月11日

クリスタルのベル

アメリカは、ロサンジェルスに滞在していましたが、
ダウンタウンの近くにあるエバンスアダルトスクールに
通学していました。

学校が終わると直ぐ居候しているアメリカ人夫婦の家に帰り、
家の掃除、ベットメイキングと洗濯と夕食作りの世話をし、
食器を洗い、かたずけて1日が終わります。
翌日は、学校に行く前に庭に水を撒き、
朝食の準備をして学校に急いで行くのが日課でした。

始めは1部屋を借りてホームステイ、と思っていました。
しかし多少小使いが貰える、と言う事で家事のお手伝いを
していましたが、次第にお金もっとり欲くなり、
女中(男中)さんのように働き始めました。
お陰で今でもシェフ顔負けのオーブン料理が出来ます。

家は、ロスを一望に出来る丘の上にあり、近くに有名な展望台や
野外演奏場があるグリヒスパークの中の高級住宅街で、
家には大きなプールもありました。
家主は、老夫婦ですので食事も簡素でドケチで黒塗りのキャデラックに
乗り、毎週新聞の折込クーポンを集めてロスのスーパーマーケットを
動き回っていました。
ガソリン代の方が割引より多い筈なのにと思いながらも
色々な所へ行く事ができるのでオレは買い物を楽しんでいました。

只、お客様が来た時の食事の準備やサーブは一番嫌な事でした。
何故かと言うとこの老夫婦は、ゲストが来ているときには用事があると
俺の名前を呼ばず、卓上ベルを鳴らします。まるで犬みたいで、
ベルが鳴るとイェッサー(Yes,Sir)、イェッスマダーム(Yes,Madam)と
言い、お伺いするのです。
悔しくてく悔しくて拳を握り締め仕事をしていました。
屈辱感から、ベルが鳴るたびに必ずベルを鳴らす立場になるぞ!と
誓いましたが、当地でメイドを雇う立場になっても一度もベルで
人を呼んだ事はありません。

その代わりにクリスタルで出来た色々なベルを100個以上集め
棚に飾っています。
それを見るたびに懐かしいアメリカ時代を思い出します。

2007年04月13日

頭の中で何かがスパーク

米国人の老夫婦に同居しアメリカの生活を身体で体験しましたが、
奴隷のような扱いと勉強より米国でビジネスを勉強したかったので
その家を出て、ハリウッドの近くにアパートを借り、
仕事を探しました。しかし、簡単には見つかりませんでした。

理由は簡単、ビジネス英会話力がまだ付いていなかった為です。
それで毎午後からサンセットブルバードにあるバーに行き、
カウンターに座り、いつもビールをちびりちびり飲みながら
そこにいる女性のバーテンダーと会話していました。

お酒の力を借り英語をしゃべる恥ずかしさを消し、又、舌の回転も
よくなると思い毎午後通うと此方はお客ですので彼女も時間つぶしに
会話してくれました。

ある時、追加オーダーしていないのにビールが運ばれてきました。
まだ頼んでいないよ!と言うと『THIS IS ON THE HOUSE』と言われ、
彼女は、目をウインクしました。
最初はこの意味が全く解りませんでしたが、
何となく私のおごりよ!。。。と言っているのが解りました。
それまで日本語を英語に、英語を日本語に置き換えて話していたのが
その時から頭の中で何かがスパークして、
今までとは違う頭脳回路が、出来ました。

学校では習わない生きた会話が、その日から出来始め、
英会話が楽しくなり、コンプレックスもなくなりました。
お陰でその後、ロスのダウンタウンに有る某航空会社系の
旅行会社に入社することが出来ました。

2007年04月14日

社長になるならサービス産業

旅行会社で働き、ツアーコンダクターになりました。
ディズニーランドには多い時は、日に3回も行く事もありました。
ロスの飛行場に日本からの旅行者を迎えた後、
市内観光してホテルにチェックインし、翌日にディズニーランドに
連れて行き、その翌日はサンディエゴや米国との国境線を超え
メキシコのティファナにも行き、その翌日にグランドキャ二オン、
ラスベガスに行く、というのが日課でした。

翌年が米国の建国200年目の為、色々と米国の歴史を勉強しました。
不思議だったのは、何故たった200年で世界NO.1の国になったか、
ということです。オレなりの理解は、
東海岸から西海岸まで西へ西へと開拓者が、
ゴールドラッシュで移動した事が大きな転機だったと言う事です。
金の鉱脈を求め駅馬車に乗り、インディアンと戦い、
ロッキー山脈まで超えて来たバイタリティーには驚かさせます。

このゴールドラッシュで今も残っているのが、
その比の作業服だったジーンズやホテル等です。
鉱業は無くなりましたが残ったのは全てサービス産業です。
アメリカエキスプレスも昔は金の輸送が原点ですし、
物の輸送から旅行小切手やクレジツトカード、
そして電子マネーと変化しています。

工業高校機械科の卒業ですが、工業関連に携わるよりサービス産業に
携わる方が、大きな資金も技術も要らないので
独立して社長になるのなら絶対にサービス産業だ!と
この時に確信しました。

短いアメリカ滞在でしたが、この時代の経験が
今のオレの血、肉、頭脳になっているのは間違いありません。

2007年04月18日

憧れ!オーストラリア

VISAの問題でアメリカを離れ、日本に戻ってきました。
1年半程度の滞在でしたが、海外でも生活できる自信は何とか
付きました。

帰国後、インドレストランの支配人になった事は、既に書きましたが、
毎日ビルの地下で朝から深夜まで働いていたのでどうしても又、
海外に行きたくなりました。

その思いで、今、SINGAPOREに30年間も滞在しています。
よく何故、SINGAPOREを選ればれたのですか?と聞かれますが、
『世界地図を広げ、ロジスティク的に考えたり此れから発展する
地域、国を考え、当地を選びました。。。』と
回答するようにしています。
すると「先見の目がありますね。。。流石ですね。。。」と
言われるのですが、実は、単純にUSAみたいな大きな国、
AUSTRALIAに行きたかったのです。

只、その比は、まだオーストラリアは、白豪主義が残っており
日本人と言えどもVISAの問題など厳しい扱いでしたので
とりあえずユニオンジャックの国、英国の元植民地であるなら、
単純に数年居る内にオーストラリアに行ける情報も手に入ると
思い当地を選びました。

毎日毎日、英字新聞を目をこらしながら見ていたら
SINGAPOREで求人広告を発見!即応募しました。
日本にも関連会社があるのでそこで面接を受けましたが、
採用、不採用の通知が1ヶ月にも経っても返事がありませんでした。
そこでその関連会社に電話すると不採用の通知を
面接した日に送っていますと冷酷に言われました。

その3ヵ月後に別の方法で、SINGAPOREに来る事が出来ました。
オレは強運だ!とそのとき本当に思いました。

2007年04月24日

近道をしない

SINGAPOREを第二の人生場と決めた事は、
つくづく幸運だ!と思う此の頃です。

もし60年代の東南アジアでは頭一つ飛び出たフィリピンに行って
いたら間違いなくマルコス大統領・イメルダ婦人・マラカニヤン宮殿の
官僚達と上手く付き合い、日本のODA関連を取り仕切る裏役に
なっていたと思います。

又、東西の距離にするとアメリカ合衆国と同じ距離のある大きな国、
インドネシアに行っていたら、これまたスハルト大統領や建国の父、
スカルノ大統領の4番目の奥さんのデヴィ夫人と共に、
あの手この手で彼らに近ずき政権を担う官僚と大きな利権ビジネスを
していたと思います。

でもいずれの国も時の政権が変わればそれまでで、オレも元大統領、
ファーストレディー達と一緒に藻屑と消えていたでしょう。
それ以前に商敵から黒い噂を流されこの世から消えていたかも
しれません。

SINGAPOREは、ゴミ一つ落としても厳しく罰され、
法律も完璧に整っているので、ビジネスは王道を歩むしかありません。
近道をしないでこの厳しい王道を一歩一歩、歩んで来た事が、
他国で色々と応用出来き、他の日系会社より一歩先に海外進出を
果たせたとも言えます。

未だにフィリピンには、会社を設立していませんが、時々マニラに
行くとやっぱりSINGAPOREで起業した事で今日のオレがある
と確信しています。

2007年04月27日

補欠の補欠の補欠

SINGAOREの会社面接が、不採用になったと書きましたが、
不採用の通知も届かない会社だったので、日本支社に文句の電話を
入れましたが、ケンもホロホロに君が採用される訳は訳無いだろ。。。
とまで言われました。

しかし3ヵ月後にオーナのアメリカ人が日本に来ているので
再度面接したいと電話がありました。事務所に行くと英語のテストを
又やらされ色々な意地悪な質問をされた後に
『君は、海外で仕事する気が本当に有るのか?』と質問されました。
此の質問には、頭に来て『そもそも3ヶ月前に面接を受け、
採用、不採用の通知も出さずにこちらから問い合わせして初めて
不採用が判明し捨て台詞をされ今回再度面接を受けさせられ、
英語のテストも受け。。。。此れだけの事をしているのは
海外で働きたい一心だ!良くそんな質問できるな?』とアメリカ人の
社長にふざけるなとくってかかったところ、即採用となりました。
彼曰く、『日本人は感情を余りださないしディベートが出来ない人が
多いけど君は違う』と言われました。

それから研修期間も無く、即SINGAPOREに赴任せよとの条件で、
1週間で身辺処理をして羽田から再び海外に飛び立ちました。

この出発前日に他の社員から聞いたのですが、
3ヶ月前に採用した人は、研修期間中に家族の反対で
海外に行けなくなり退社、もう一人の採用した人も途中で病気になり
退社、3番目の候補は既に他社に採用されていた、
と言う事でもう一度新聞広告を出して募集する準備をしていたところ、
不採用としたけど変わった面白い人間がいると誰かが気が付き、
君を再度面接したとの事。

君は補欠の補欠の更に低い補欠候補だったので皆は君の事は
そんなに期待していないので体を壊さないように。。。

この言葉を聴いて頭が真っ白になりましたが、
今に見てろ!オレを採用した事がどれほど会社に貢献したか
見せてやると心に誓いました。

それにしても補欠の補欠、最低な補欠のオレですが、
強運が人一倍ある事を今も信じています。

About 2007年04月

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