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2007年03月 アーカイブ

2007年03月01日

お金

会社を設立して、お金という物は資金という形でアッと言う間に
なくなる物、と強く思った。

設立以来、毎日頑張り続けて、売り上げを伸ばして順調に会社が成長したが、今度は、オペレーションの資金が足り無くなって来た。

仕事は幾らでも入ってくるのに業者等に立替払いしていく中、
集金サイトの問題で手持ちの資金が無くなった。

そこで「運転資金を融資して下さい」と今は消滅した某銀行に
(我々は今も存在しているが・・・。)融資の依頼に行った。

すると『森さんの活躍は目を見張るものがあるので、融資を前向きに
検討します』と言われ一安心。しかし続けて『500万円融資するので
500万円相当の担保を戴きたい』と顔色ひとつ変えずに淡々と
言われた。

(ナニいぃぃぃ・・・と握り拳を隠しつつ)
『私の2歳になる息子に5個飴玉相当分をくれたら5個飴玉をあげるよと言って息子は、喜んでYESと言いますか?』と斬り返したが、
有名大学を卒業したこの行員は、単純な計算式は苦手なようで
答えを出せなかった。

それ以来、銀行にはお世話にならないぞと決め、ビジネスを
遂行して来た。

バブルが弾けた年に同某銀行マンが、『余裕資金を利回りの良い
定期預金しませんか?』と営業にやって来られた。
『良いですよ。営業もノルマがあるので大変でしょう。
お手伝いしますが、1億円の定期預金をするので1億円担保を
出して下さい。』と言ったところで銀行マンは、
定期預金通帳を作り始めるだけ。そこで昔話を持ち出し
『貴銀行は何時他の銀行に買収されるか解らないし倒産するかも
解らないので預金の担保を取るのが何故悪い?』と私も顔色を
変えずに淡々と言い、創業時の恨みを果たした。

しかし今日、アジア全土に会社を広げ発展で来たのも某銀行マンの
お陰と確信しています。

本当に心からの感謝とお礼を申し上げます。

もしリストラや、定年退職していたらお礼に雇用をしたいと思う
この頃です。

2007年03月11日

振る舞い

会社を設立して 直ぐに資金が無くなった事を書きましたが、
資金は、まず事務所の保証金と家賃の前払い、車のリース代金などで
あっと言う間に底に突きました。
そもそも事務所の保証金と家賃が高かった為ですが、
それもその筈、日本で言えば丸の内の「丸の内ビル」のような
由緒あるビルに事務所を構えた為です。
そのビル(HONG LEONG BLDG)は、1階が東京銀行、三井銀行、日本航空が入居し、更には三井物産、丸紅、伊藤忠、日商岩井、
新日鉄、日本石油といった、そうそうたる超一流の日本企業が
入居していました。

何故資金が無いのにそのようなビルに入ったのか?
それは『看板と信用が欲しかった為』です。
27歳の若造(当時は歳をごまかす為に髭を生やしていた)で会社を
設立したばかりなのですが、このビルに入居している事で、
誰も資本金が幾らかとか、売り上げが幾らか?とかは一切聞かない。
名刺には、太く大きく住所が判る様に明記しました。
その代わりに事務所の机、椅子や備品が買えずに床にゴザをひき、
電話帳を積み上げ、その上に電話を置き、ゴザの上に正座して
お客様からの電話を待つ、という毎日でした。
来客があるといつも地下にあるコーヒーショップで会談していました。
そんな事務所がばれないように。

≪金が無いときは金があり余っているかのように振る舞い、
金が山ほど出来た時は、金が無い振り、貧乏の様に振舞うのが
ベストです。≫

2007年03月12日

約束手形と小切手

会社を設立してから金の無い話ばかりですが、銀行からも融資を
受けられず(何も担保が無いので当たり前だけど。。。)ビジネスは
順調に売り上げを伸ばしていきましたが、どうしても運転資金が
ショートしてしまいました。

日本の様に約束手形があれば、手形を切れば、当面の運転資金は
確保され、又、約束手形を貰えばそれを街金融に持ち込めば
割り引いて即、現金化出来ます。
SINGAPOREには、この約束手形が無いので 仕方なく知恵を絞り、
当地版の約束手形を考え付きました。

例えば、今月末に支払わなければならない業者に、
銀行小切手の日付けを2週間ほど先延ばした物を手渡していました。
今は現金が無いので支払えないが来月の中旬までには集金した
金が入るので。。。
この“約束小切手”で2週間程度の資金繰りが出来ました。

また、その2週間後にもし現金が無い時は、小切手が不渡りになる
ので業者に頼んで銀行に持ち込むのを2日程度遅らしてもらったり
していました。
それでもどうしようもなく手持ち現金が無く、支払わなければならない
非常事態の時は、またまた知恵を絞り、わざわざ英語のスペルを
間違えたり読みにくくしたり、日付けを間違ったりして銀行が
受付けしない様にしていました。
(小切手は、支払い先名、金額の数値と英語で金額を書き、
日付けを入れ、サインするので。。。)
スペルの間違いを指摘されたら『ゴメン、英語が弱くて。。。』と
頭を掻き掻きして謝っていました。

それもこれも運転資金が無かった為の知恵ですが、
もし約束手形が、当地にあったらもっと楽に会社経営出来た、と
その当時は思っていました。
しかし今から考えると約束手形が無かったらこそ、現金のみを頼り、
キャッシュ・フロー(当時はこんな言葉は無かったが)を考え、
会社を経営して来ました。

それ故、27年間もビジネスを続けて来られた、と思うこの頃です。

2007年03月14日

金、ローレックス、ベンツ

世界の3大商人と言えば、ユダヤ人、インド人そして中国人ですが、
SINGAPOREは、この2大商人が人口の85.21%をしめています。
おかげで彼らには数々のビジネステクニックを学ばさせてもらいました。

会社を設立して毎日10時間程度、月曜日から土曜日まで、また
繁忙期の2月、3月は、月、月、火、水、木、金、金状態で
一生懸命働いたので多少の小銭を稼ぎました。

そこで買ったのが、金のネックレス、金無垢のローレックス時計、
メルセデスベンツ(車)です。

日本で言えば、
正真正銘の【成金趣味】の一言ですが、
子供の時代に家が貧しく小学校5年生から朝、夕刊の新聞配達を
して家計を助けていたので自分の欲しい物が買えなかった反動でも
あるのですが、ビジネスを成功させた証として買いました。
この3品は、中国人の3種の神器、夢の品物です。
何故3種の神器なのか?、それは何れの商品も即、転売出来き、
それほど価値が下がらず反対に上がる位の品物です。

ネックレスは、18金でなく勿論金の純度が高い22金製、ローレックスも日本での中古品価格を見れば理解出来る筈でし当地にも貸屋が
あり、ローレックスなら即現金化出来ます。
ベンツも高い人気の有る車ですので中古車屋に持ち込めば
それほど値段が下がらず引き取ってもらえます。
平常時には、高級ブランド品を身につけている誇りと、緊急時には、
それを即現金化しビジネスを継続させるというこのアイデアは、
中国人から学びました。
今でもこの3品に更にはダイヤモンド(DカラーのVVSで 数カラットで 鑑定書付き)の指輪までしていますが、
あくまでも緊急時の事を考えての事です。

『成金趣味ではありません』と言っても信じてもらえない此の頃です。

2007年03月15日

和僑

華僑、印僑(海外で生活するインド人)にビジネスをイロハを
教えてもらいましたが、インド人には強烈な思い出があります。
中国に次いで人口の多いインドですが、日本、関西には、
多くのインド人ビジネスマンが住んでいます。昔から繊維関係や
電気製品の輸入、輸出を多く手がけています。

SINGAPOREに来る前にアメリカで1年半滞在し、ビザのトラブルで
帰国した後に大阪駅前丸ビルの下にあるインドレストランの支配人を
開業準備から開店まで1年程度していました。

30年以上の前ですが、カレーのルーだけで800円、ご飯200円という高額で、なんと「カレー」「ライス」を頼むと合計1,000円もします。
此れにサービス料金10%を取っていました。
インドのタジマハールホテルのシェフを2名を雇っていた、
超高級レストランでした。故郷から遠く離れ異国の国でビジネスをする
インドの人々は、本場の料理を食べるのを高いけれど楽しみにされていました。

しかし、いつでもウエイター、ウエイトレスとインド人のお客様と
揉め事が有りました。
いちゃもん、文句が殆どでしたが、カレーがHOTで無いと文句を
言われ、冷えたかもしれないので温めると又、HOTで無いと文句。
今度は味が、HOTで無いと文句でその間、3カレーを食べて
しまいます。此れでカレー代は270円(≒800÷3)です。
本当に賢いなぁ、と思いました。更に勘定する時は数字に強く、
二桁の掛け算も一発で御明算!びっくりです。

SINGAPOREに来ても、契約時に散々値切られ、発注時に契約した時の金額をさらに値切られ、支払い時に更に端数をCUTされるのが
常です。

恐るべしインド商人ですが、それを見習って、レストランでは文句を
言い、価格交渉にはめっぽう強い和僑になりました。

2007年03月16日

家と資産

海外引越をメインビジネスしているお陰でSINGAPOREで何回も
引越をしました。

まず、初めて住んだ家は、HOLLAND地区でテラスハウスの1部屋を
間借りしていました。

その後、UPPER THOMSON地区のセミデタッチの家に移りました。
そこは庭付きの2階建、3BEDROOMの大きな家に一人で住みました。
家賃が安い郊外の家なので会社から遠く、通勤に時間がかかる
(今の様に高速道路が発達していなかったので片道90分)ので
引越しました。

その後、WEST・COASTに引越しました。
この時に既に結婚し子供も1人いました。

さらにその後、会社を設立したのでまたまた引越です。
海の見える、KATONG地区のマンションでした。

そして、毎月、毎月家賃を払っているより家を買った方が
資産にもなるので会社設立2年目でEAST・COAST地区の家を
購入しました。家を買えるぐらいビジネスが上手く行った時期でした。

しかし30歳前に会社を設立、そして家を買い、子供も二人いて
ビジネスなんて簡単な物とラ*フドアー堀*元社長並みに
鼻持ちならないぐらいの傲慢が、災いをもたらしました。

借金を返す為、仕方なくこの家を売却して、
また再び家賃を払う生活になろう、と腹をくくりました。
しかしなんとこの家が購入した時の価格の2倍で売れました。

借金を返した後にまだマンションを買えるだけの金が残りました。
そこで会社を設立する前の気持ちと考え方に戻る為に、
WEST・COASTに引越しました。

そしてまたまたこのマンションを売り、その金で出版、
メディア会社のCOMMを設立したり、海外に支店を増やして
ゆきました。

とりあえず家賃生活をする為と子供が5人も居たので
HOLLAND地区の大きなマンションに引越しました。
このマンションは、各フロア毎に2世帯しかなく、各戸は
2フロアのマンションでした。

その後庭付きの家が、やっぱり落ち着くのでWEST・COASTに
再度引越。

そこの家賃が高くなったのでHOLLANDの近くのマンションに引越。
当時不動産ビジネスも始めていたので、良い情報を得て
タウンハウスを投資の為に購入、その家を外国人に貸し
その家賃を銀行ローンの返済に充てていました。

更にマンション生活も嫌になりCHANGI地区に家を又購入し引越し、
今もそこに住んでいます。

ところで何回引越したかわかりますか???

2007年03月18日

男の甲斐性【車編】

すざましい回数の引越をしましたが、
車の乗り換えはその比ではありません。
まず、SINGAPOREに来て乗った物は、ホンダの90ccのバイクでした。

23歳の若さでしたのでのでVISAが取れるか全く不明でした。
その為、会社が用意したのがバイクです。営業の仕事なのにバイクしか
与えれれず、今の様に排気ガス規制の無い時代で殆どの車は
黒煙を上げて走っていました。そのため、毎日カッターシャツの襟首や顔まで真っ黒になっていました。更に当地のスコールの為に全身ずぶ濡れになったり、雨宿りしている間にアポイントの時間に遅れたりと
散々な毎日でした。

念願のビザが、取れて最初に乗った車は、中古の日産サニー
もうこれで雨に濡れない、と喜んだのも束の間、エアコンが装備
されていなかったので、あいも変わらず排気ガスには
悩まされました。

灼熱の当地でエアコンが無いのは、
排気ガスまみれ、汗まみれになるので
エアコン付きのホンダ・シビックに乗り換えました。

営業成績も上がってきたところで次の車は、米フォードのコルティナ
外車を運転していると海外で働いているなあー
という実感が湧いてきました。
しかし、この車は雨が降ると電気系統がショートしていつもエンストして
立ち往生・・・。

走らなければ車ではない、仕方なく、性能重視で日本車が良い思い、
トヨタのコロナマークⅡに乗り換えました。
もう一端のビジネスマンで何処に停めても自慢の車でした。

そして独立し会社経営を始めた時に、即買った車が、中古車でしたが、
お洒落なイタリアの黄色いフィアット
車種だけでも目立つのに、車のナンバーが、6969で皆から
『昨晩何処何処に行っていたね。。。』と殆どの行動がバレバレでした。

そんな事もあり、とうとう夢の車、メルセデス・ベンツに買替えました。
しかし30歳前の男がベンツを乗り回しているのは、
多くの反感をかいました。
ぼろ儲けしているとか、妬み、恨み、嫉妬の世界でした。
日本人社員の社用車は、皆小型トラックや、バンで給料も安く
こき使っていたので余計怨まれました。

色々なトラブル(詳しい事は次回以降のお楽しみ!)が続き、
仕方なく三菱ギャランのステーションワゴンに乗ることに・・・。

初心に帰って一生懸命に働き業績も回復したので次は
アウディ100CD
を買いました。
さすがドイツ車で毎日気持ち良く飛ばしていましたが、
この新車で納車1ヶ月目に修理の目処が付かないぐらいの
大きな事故を起こしてしまいました。
幸い擦り傷だけで何の怪我も無かったのですが、
今でも事故車の写真を見ると良く生きていたなと思います。
その後ラッキーなことに保険会社が、保険料は1年分しか支払ってない
のにもかかわらず新しくアウディを納車してくれました。

しかしこの事故以来、どうも縁起が悪いので日産のセドリックで厄払い。

ちょうどその頃、事務所と倉庫を新しい所に移りましたが、
隣に高級車ばかりを修理するガレージがあり、毎日世界の名車を
見ている内にどうしても欲しいと思う車が現れました。
英国製のジャガーです。勿論、即買い替え。ご存知かも知れませんが、
ジャガーには、燃料タンクが2つあり120リットルもガソリンが入ります。最初私は、欧州では、市内、郊外ともそんなにガソリンスタンドを見ない事と、長距離運転する為に大きなタンクがある、と思っていましたが、
何の事はない、只単に燃費が悪いだけ
ガソリン代の高さ(燃費の悪さ)と
維持費の高さに文句を言うと
『ジャガーに乗る人は、燃費も維持費も気にしませんよ』と言われ、
仕方なくBMW728に乗り換えました。

しかし同じドイツ車でもBMWとベンツには、差がありやっぱりベンツに乗りたくなり又もやベンツの最高級クラスのベンツSクラスを購入。

このベンツのSクラスは、新型モデルが出るたびに乗り換えました
今はベンツのスポーツタイプのCLS(AMG仕様)に乗っています。
スポーツ車にした理由は、50を過ぎ一度限りの人生を楽しく愉快に生きよう!と思った以外にありません。
(“ちょい不良オヤジ” byLEONのイメージ・・・)
そしてビジネスの面でも、もはや人の目を見て
どうこうする様な時代ではない、
と心底から思えるようになった事も、この選択を後押ししました。

これ以外に所有した車は、ビンテージカー、クラシックカーです。

最初に手に入れた【というより元日本人社員のローン未払いでその保証人をしていた為、止むを得ず全額支払させられた】のは
1953年型のフォードのポピューラで、自分と同じ年に生まれた車
という事もあり愛着がありました。元々機械関係が好きで高校も
工業高校卒業でしたので油の臭いも好きな臭いであり、
車を弄繰り回すのが楽しくてたまらなくなってしまいました。
これを期にクラシックカーの愛好家になり、どんどんとクラシックな車を
買い集めました。

次に買ったのは、1958年型のベンツ170で たびたびクラシックカーの
ラリーに出場していました。これ以外に38年型シンガーロードスター
(ミシンのシンガーではなく 英国製の車)、
60年型オープンカーのMGA1800(ツインカムシャフト)、
65年型マルコスロードスター(英国製)。

専ら休みの日に乗り廻すのですが、古い車の為エンジンが
オーバーヒートしたりと何かと手こずる車達です。
しかしそれが楽しみの一つもあります。

ここで又もや質問!
いったい何台車を乗り換えた?

2007年03月19日

会社の危機_第一波

26歳、27歳の狭間の時に海外で会社を設立し、即、家も購入し、
外車を乗り回し、仕事を終えたら接待と称し クラブ、ラウンジ等の
飲み屋をハシゴして街中、肩で風を切って歩いていました。

でも驕る平家は久しからずでとうとう会社の危機がたて続きで
これでもかこれでもかと襲ってきました。

第一波は、限られた市場の海外引越より、もっと大きな運輸業全般へ
手をのばしたくなったときにやってきました。

現地の社員を雇用し市場開拓をして行く事で、大きなビジネスが転がって来たのです。丁度、イラン・イラク戦争が始まり、中東にカーゴ輸送するのが困難な状態でした。いくらバクダット(今では、有名な所になりましたが。。)まで輸送するカーゴが有っても、バスラー港に魚雷が浮いている状態では、大手船会社、運輸会社は、そんな危険を冒してまでも戦争地帯に輸送はしません。
そこで バスラー港には行かず、クエートで一度陸揚げしてトラックでバスラー経由、バクダットまで輸送するアイデアを考え、見事にこの仕事を4回分受注しました。1回の売り上げが5千万円、合計2億円の仕事で利益は、予想で8千万円以上です。
しかし結果は、失敗。
輸送する前に船会社が、倒産してしまったのです。
荷主は、「あんたの責任だ!損害賠償(
3億円以上)を払え!!!」と
裁判所に訴えました。そうこうしている内に銀行口座も凍結され、
ニッチもサッチも行かない状態になりました。

大きなビジネスチャンスが、何の事がない大ピンチになりました。

これも自信過剰がもたらした結果でした。毎日毎日、食欲も無く、眠れず、起きてももさめても裁判の事が頭から離れません。
ただ、「何も悪い事はしていない、悪いのは倒産した船会社だ」と思うだけの毎日でした。そんな苦痛の日々を過ごす俺に、マレー人の妻が、
『貴方はSINGAPOREにスーツケース1つだけで来たんだから、又、
スーツケース1っで 日本に帰れば。。。2人の子供は、私が此処で育てるから大丈夫』と言われてしまいました。
ここで「はい!ご好意に感謝して日本に帰ります」と言えない大和魂が、
身体全体からムクムクと涌いて来ました。「よし裸一貫で来たんだから又、裸一貫で帰れば良い、だけどその前にあらゆる努力をして人生に恥と汚点を残さない様に頑張ろう」と決意したのです。
荷主と裁判で争うのではなく、今まで儲けてきた金を全部渡す
3億円には到底届きませんが・・・)と言う案で示談して和解しました。
この裁判で誰よりも裁判手続を熟知し、弁護士の使い方から争い事の
裏の裏まで脳裏に刻んだお陰で今のオレ、会社が存続しています。

ひとつだけ残った問題は、これ以来、妻に頭が上がらない、
という事です。

2007年03月21日

会社の危機_第二波

第二波は、雇用していた日本人社員の造反でした。
その当時4人の日本人社員を抱え海引越業界NO.1の売り上げと利益を上げていましたが、雇用した日本人は、どこかにすねに傷があったり、学歴が低かったり、日本で馴染まない様な人間ばかりでした。
オレも工業高校しか卒業していないので大卒や建前だけのエリート人間には、違和感があり、頑張って働いてそんな人間を見返せ!とハッパをかけていました。水滸伝に出て来る
晁蓋(ちょうがい)
梁山泊の初代首領)気取りでした。

しかし余りにも社長と社員の給料や待遇が違うので、その当時は
不平不満が噴火する前の火山の様でした。「何の経験も無いのに高い
賃金が払えるか?この会社は、海外で働く為の色々なノウハウを教え
るビジネススクールや!給料どころか授業料を貰いたいぐらいだ。。。
おまえらを雇えるのはオレの会社だけだ!」
そんな状況の中、一人の社員が、奥さんが貯めていた子供の教育費を
すくね単車を買い、その上さらに借金をしていました。それが発覚した
時点で有無も言わさずその社員の首を切りました。
余りにも強引と思ったのか、また前述の第一波の後遺症で会社倒産す
る可能性も高い、次は自分か?と不安に駆られ、三人の社員が、同時
に辞めました。

これで一人の日本人社員も居ない孤立状態になりました。
更にこの時に辞めた元社員が独立し競争会社になったのです。相手
は、此方の手の内を確りと学んでいて毎日厳しいトレーニングをし競争
会社を設立出来る位の戦士ですから正しく飼い犬に手を噛まれ状態で
大苦戦の毎日でした。しかしこれもオレが招いた問題で他人をどうこう
言う前に、退社した人間が、『あの時あと一踏ん張りしていたら、退社せ
ずに居たらもっと楽しい事があったのに・・・。悔やむな・・・』と言わせし
める様に、と心に誓いました。また競争会社が出て来たら、その会社以
上に知恵を絞り、長時間働き、自分を更に切磋琢磨すれば良いとも思
いました。

辞めた三人の内、一人は音信不通、もう一人も会社潰して方向転換
し、残る一人は、今、再度入社して働いて居ます。
昔の様に厳しく???
その出戻って来た元社員と時々昔話をしますが、どうやってもオレとビ
ジネスや喧嘩しても負けるが、オレが妻に敵わない理由が不可解?と
今でも言っています。

2007年03月22日

会社の危機_第三波

第一波、第二波とたて続けに大きな難問、危機が訪れましたが、
第三波もやっと波が引いた後に又もやの襲来でした。
日本人社員が、一人も居なくなり、新たな競争会社も出来てしまったので 再度日本人社員を雇用しました。

即戦力になる社員で経験豊かでそれなりの大学を卒業している事を
条件に選び、採用したのが初等科、中等科等の名称を使う超有名大学を卒業した者でした。
只、難点が、お調子者と余りにも社交的、見栄を張るタイプ、金銭感覚がずれている御曹司で離婚も2回していました。仕事は、てきぱきとこなし、アッという間に友人をいっぱい作り、スポーツマンでGOLF、水上スキー、ラリーと何でもこなし仕事も遊びもバリバリ!としていました。
それが、あちこちで借金を作り始めとうとう事務所にも金を払え等と脅しが入る様になりました。実は日本にも大きな借金があった様でした。

終いには、ある日突然、行方不明。社宅に行ったらもぬけの殻で置手紙があり、借金が膨らんでヤクザ連中にも脅されどうしようも無いので日本に妻と一緒に逃げるとの事。。。。
手紙を読んで何かテレビドラマを見ている感じとそのドラマの主人公になって行く感じでした。
汲めども汲めども押し寄せて来る波、津波に
飲み込まれそうなショックでした。
日本人社員が、行方不明、借金を踏み倒し日本へ逃走との噂が、
噂が噂を呼び、あっと言うまに日本人社会で 広がり、
又、例の社長の会社が。。。と酒の肴にされる毎日でした。

幾ら本人の責任問題としらを切っても社長としての管理責任を問われ
こうなれば逃げるわけには行きません。飲み屋のつけからクレジットカード、日系の百貨店とあらゆる未払いを長期月賦で支払いました。

その中で大きな借金が二つありその一つが前述のクラシツクカーです。
このクラッシクカーを買って逃走した元社員は、ローンを組む時に保証人が居るので絶対に迷惑を掛けない、支払いが、とどこうれば、給料から引いて下さいと言い、オレは、仕方なく保証人になりました。
結局、満額支払った後にこのフォードポピュラーが手に入りました。
またこの社員はモーターボートもローンで買っており、
此れも保証人になりましたが、こちらは、即売り払いました。

更に会社の社用車を担保に金を借りていました。それも2台。
そのうちの1台は、会社の名前と同じトヨタのクラウン。
街金融から借りていたので、腕っ節も強く強面の人間が、会社に乗り込んでこのクラウンを返せと迫ってました。この車は、登記は元社員だが、社用車で毎月のローンも自動車販売会社に支払っていて所有権は自動車販売会社にあると腕をまくり怒鳴り上げました。
最後の捨て台詞は、オレは裁判を何回も経験し来て何回も地獄を見ているので一筋縄で行かないぞと。。。

此処で色々な苦難を乗り越えているという自信から肝が据わり、更に裁判の経験が活きてきたのです。

今では裁判に関して相談事を受ける日々です。

人生、何事も逃げずに真正面から問題と取り組んで行くのが
強くなる秘訣です。

2007年03月23日

会社の危機_第四波

このサイトを見ている人達は、よくもそんなにも危機が来るものかと
不思議がってると思いますが、まだまだ続きますので、
お付き合いの程よろしく。。。

第四波が、又もややって来ました。本当に此処までオレを虐める神様、
仏様、アラーの神にパンチを喰わしてやりたい気持ちで一杯でした。
でも神様、仏様、アラーの神様がオレをもっと高いステージに
あげる為、鍛えようとして居ると思い、過酷なトレーニングにも
音を挙げず対応しました。
しかしこの第四波は、全身全脳を揺るがす、大変厳しいものでした。

社員が一斉に退社し困っている時に知り合いのSINGAPORE
女性から 日本人社員の紹介を受けました。
この女性の友人が日本で知り合い日本人男性と結婚し子供産んだが、
日本での生活が合わないので旦那に当地で働らいてもらい、
子供と一緒に当地でやり直したい、との事でした。
この男性は、過酷で厳しくてドライバーに高い給料を支払う有名な
運送会社で働いていましたので、あの会社で勤まるなら大丈夫
と思い早速採用しました。
さすが元褌マークの会社に働いていたこの社員、夜遅くまで文句も
言わずに黙々と働いていました。

ただ、国際結婚をしているからでは無いのでしょうが、家庭内で
数々の問題があり、色々と揉め事がありました。
本人は、家に居るより会社に居た方が安らぐ、と言い土・日曜日も
働いてくれました。

引越がピークシーズンとなる2月末に、これから忙しくなるから体調に
気をつけて頑張ろう!と皆で食事をしました。その席でオレが酔い
彼が運転して帰る途中、オーチャード・ブルバードを走り、タングリンの
近くのカーブでブレーキも踏まず、それどころかアクセルを踏むので、
馬鹿野郎!事故るぞ!と大声で叫びました。
その時、『死にたい、死んでも良いですか?』と一言、言ったのです。
オレは、『お前には可愛い子供が居る、子供を不幸にさらすな!』
と言い返しました。
しかし、この会話が、彼との最後の会話となってしまったのです。

翌日の日曜日、彼は、奥さんと家で喧嘩して朝から酒を飲んで
いました。そのまま夕方まで酒を飲み、その事を奥さんから注意され、
一人で家を出て車に乗り、家の近くの道路のバス停の柱に直接衝突
して即死しました。
幸いバス停には人が居なかったので他人を事故に巻き込む大事には、
至りませんでした。
事故現場のバス停の前のカーブは、前日彼と通ったオーチャド・ブルー
バードと同じ形のカーブをしていました。
事故当日の夜、奥さんと警察から電話があり、
事故の説明と彼が亡くなった事を知らされました。
即病院に向かい、彼に対面、その後事故現場に行き、原型を留めない
車を眼の前に血の気が引いて行くのを感じました。

翌日床屋に行き、髪の毛をばっさりと切り頭を丸め懺悔しました。

お通夜、葬式と段取りをして埋葬した後に残された奥さんと子供を
どうお世話したら良いか悩み続けました。
既に時効なので書きますが、飲酒運転と判断されると保険の問題も
あり、何とかもみ消すしかありません。更に日曜日でしたが、
会社の勤務で夕方から仕事をして打ち合わせ現場に行く途中の事故
として労災保険も。。。
今までのコネを使い奔走しました。
お陰で大きな金額にはなりませんが、子供が大きくなるまで
当面の事は、出来ました。

それ以来社員を亡くす事だけはしまいと心に誓いましたが、運送業の
宿命で、SINGAPORE人のドライバーを勤務中にトラック同士の
衝突事故で亡くしました。

この件では、これ以上書けません。
彼らのご冥福を何時までも祈っています。

2007年03月24日

波乱万丈

「今まで波乱万丈の人生を過ごして居らっしゃいますね」と
良く言われるのですが、本人は、そんなに波乱万丈とは
思っていません。

人より多少、大波、小波と落差のある波を受けているのは
間違いありませんが。。。そう思えるのも幼年期に他人より苦労
(今から考えると有難い試練)をしたからだと思います。
お陰で 早くからビジネスを体で覚える事が出来ました。

家が代々婿養子を貰う女系の家系で父親も婿養子、絵書きの
お祖父さんもです。そんな家系でやっと跡取り長男息子の私が
生まれた時は、母は、安堵とご先祖様に胸を張れると言ったとの事。

でも色々な問題があり、家庭は貧困状態で小学3年生の時に
母が大病し長期入院生活しました。
卵一個が、一家6人の夕食のおかず
(大きな鉢に卵を溶き、此れにメリケン粉と水、醤油を混ぜた後、
ご飯を入れかけ混ぜる)という時が多くありました。
自分の欲しい物が、全く買って貰えず、学校給食だけが
唯一の楽しみでした。

そんな中、どうしても皆のように自転車が欲しくなり
小学4年生の夏からラムネ工場で空き瓶を洗うバイトをしました。
バイトのお金は、高が知れていました。
しかしオレは、ある方法で稼ぎを増やしました。
その方法は・・・。

ラムネのビンが割れると、内にあるビー玉が出てきます。
工場のドブ掃除をして、「ビンが床にあると危ないので捨てて来ます」と
言い、このビー玉を貰って帰りました。
そしてその手に入れたビー玉を近くの子供達に売り、
お金に換えました。
廃棄処分品を手に入れ再販する事を実体験したのです。

このバイトとビー玉のお金だけでは自転車は買えないので、
くず鉄屋さんに行き、中古の自転車の部品だけを譲る受けました。
女性用の自転車、蕎麦屋の出前用の自転車、子供用、大人用、
スポーツ用と色々な部品を組み合わせブレ-キは、一つだけ、
車輪のカバーもない、サドルだけが大きい
自慢のオリジナル自転車を組み上げました。

それから天体望遠鏡が無性に欲しくなり新聞配達を5年生の時から
朝、夕刊の配達を雨が降ろうが雪が降ろうが毎日続けました。
今でこそ、朝刊は月に1回休刊日が有りますが、
昔は、子供の日とお正月だけが休刊日でした。

それ以来、親に金を渡した事は有りますが、
親から金を貰った事はありません。
 

2007年03月26日

新聞配達

小学生の頃、アルバイトで京都新聞を配達していました。
朝5時前に起き、愛車の自転車で販売店に行き、
1時間半ぐらい掛かって配達します。
週末になると商店街や不動産などの折込み広告が入ってきます。

この折込チラシを新聞の内に入れ、配達すると別途お金を貰えるので
張り切って前夜に販売店に行き、色々なチラシを一纏めにして置き、
明日の朝、新聞が到着したら、直ちに新聞の内に入れて行きます。

それ以外の収入は、拡販(朝日、読売、毎日新聞などを取っている
家庭に行き、京都新聞に変えて貰う営業)です。
この仕事は、競争が厳しく、3ヵ月契約すれば1ヵ月無料とかタオル、
洗剤をプレゼントとかあの手、この手で契約を取り合います。
スポーツ新聞も一緒に配達していましたが、デイリースポーツ新聞は、
そんな専門員を置いていませんのでプロ野球がシーズンを
終えると皆、翌春の開幕戦まで新聞を取りません。
そこで毎年春秋にキャンペーンして契約解除を防いだり新規読者を
増やしたりします。

そのキャンペーンの賞品が豪華で皆は、契約のトップ争いします。

私も賞品のペリカンの万年筆が、どうしても欲しかったので
頑張りました。結果は、なんと京都でNo.1! 万年筆どころか
1泊2日の天野橋立と温泉旅行に招待されました。
旅館に着くと綺麗な芸者さんが沢山いましたが、
小学6年生の私には関係ありません。酒も飲めず料理ばかり
食べていたいました。
舞台に呼ばれ責任者からNo.1として紹介を受けました。
『小学6年生に負ける大人の君達は。。。。』とも仰っていました。
温泉の有難味も解りませんでしたが、新聞配達を休める事だけが
嬉しかった。

京都で一番になれた理由は、
まず近くの工事現場に行き、そこで責任者と思われる人に
スポーツ新聞を取って下さいと頼みます。
すると『何故子供がそんなことをするのか?』必ず聞かれます。
すかさず『ペリカンの万年筆がどうしても欲しいので頑張っています!』結果は、即、契約です。
その後、その責任者が色々な現場にも声をかけてくれて
あっと言う間にNo.1!。
きっとこの工事現場の責任者の人も私と同じ様な子供を
故郷において来て親身になって応援してくれたと思います。

此れで営業と何か?どうしたら大口契約を取れるか?を体で覚え、
欲しいと思った物は、欲しいと思い続け努力すれば必ず何時か
自分の手に入る事も経験しました。

どうしても欲しかった天体望遠鏡は、反射型を買いましたが、
2,3回覗いただけでした。毎夜、月や星座が輝く始める頃には、
もう眠くて眠くて布団にもぐり込む日々でした。毎朝、5時前には
起きていましたので・・・。

2007年03月28日

アルバイト

新聞配達以外にしたアルバイトは、
中学2年生から高校3年生までしていた牛乳配達です。
新聞配達より楽で牛乳も飲める、そして時間に余裕があるので
転職(?)しましたが、冬に冷たい牛乳瓶を運ぶのは辛い仕事でした。


社会人になってからは、深夜喫茶店のウエーターと
英語教材の販売です。何れもアメリカに渡米し留学する為の資金を
貯める為でした。


昼間は大阪の淀屋橋に有った日立製作所に勤務し、
終業時間が来ると真っ先にエレベーターに乗り、
京阪電車の特急電車で京都まで帰り、先斗町の近くにある
深夜喫茶で26時まで働きました。

それでも資金は貯まりません。休暇を取ってブリタニカの百科事典と
英会話の教材カセットテープをセットにして販売していました。


33年前で50万円もする高価な教材でした。しかし、
若手社長、医者、先生、商社マンなどに売りまくり、
その販売会社での新人記録を更新しました。
秘訣は、まず電話でのアポとりと自ら考えたセールストークでした。


契約してもらう為の最後の決め台詞は、
『この教材で毎日30分練習すれば、3ヵ月後に外国人とスムーズに
会話が出来ますよ!!』といったオーソドックスな物ではなく、
『この教材で練習して彼女と洋画を観に行って下さい。
会場の人々は右端の字幕を見ていますが、貴方は、
映画館にいる誰よりも早く驚き、感動し、笑い、泣きますよ!
横で見ている彼女は間違いなく羨望の目で貴方を惚れ直す事、
間違いありません。保証します。。。』


人間の欲望に訴えないとヒトは高価な商品を買わない、
このアルバイトで得た教訓です。
その当時、日立製作所の給料は、1ヶ月の手取りで8万円位でした。
しかしこの英会話教材販売では、3ヶ月間で150万円を稼ぎました。

これで日立製作所を退社してアメリカに行く渡航費用と滞在費を
作り出した訳です。

2007年03月30日

漕艇部(ボート部)

海外で若輩のオレが会社を立ち上げ、SINGAPOREだけに止まらず
アジア各国に新会社、支店を開設できた大きな理由は、
幼年期の赤貧の経験とそこから脱出する為に自らアルバイトして
自活してきた事ですが、もう一つの大きな要因が、
高校時代に運動部で活躍した事です。


親父が、若い時に海外航路の船員をしており、子守歌代わりによく
海外の話を聞いていたので工業高校を卒業した後は、
海上自衛隊の学校か商船大学に行く夢を持っていました。
そんな影響で高校1年生の時に漕艇部に入部しました。
野球やサッカーは、小さい時から練習をして経験を積んでいる者達と
比べ、アルバイトに明け暮れたオレが、いまさら野球やサッカーを
しても即レギュラーには、成れないと考えていました。


このスポーツ、ボートは、湖、川、海がない所では練習が出来ません。
京都の洛陽工業高校は、今のJR、京都駅の次の駅、西大路駅の近くに
ありました。練習場所はそこから電車に乗り、滋賀県の石山駅で
下車した所の琵琶湖とその下流の瀬田川でした。
1年生の夏から先輩を差し置いて主将になり、1年生の新人戦では
京都府で優勝!2年生からインターハイ、国体と出場し3年生までに
常勝チームを作り上げました。


鬼の森と近畿地区では、言われたぐらい厳しい主将でした。
1年生の時は漕ぎ手でしたが、皆との身長、リーチ差が大きかったので、漕ぎ手を辞め、ラダーを引くコックスになりました。
ボートの上では、コックスが船長ですので全てコックスの指示に
従うのが原則です。主将で船長役のコックスをしていましたから誰も
反抗出来ない状態でした。
それだけに人の3倍勉強しました。
先輩コーチがいましたが、それほど熱心でなく、古い考え、古い方式、
根性論が全ての人だったので、効率の良い漕ぎ方、練習方法を調べる
為に近くの艇庫にある実業団や大学のボート部に教えを請う為に
何度も頭を下げました。


理論武装し陸トレも皆に負けない状態にしたのでメンバーは仕方なく
オレの言う事に反発せずついて来てくれました。
現役チームが勝ち続けるので後輩のチームも同じ様な頑張り、
私が卒業した年には、国体3位入賞するまでの成績を上げ、
更に翌年の後輩は、インターハイ2位になりロンドンのテームズ河で
行われた世界選手権にも出場できるぐらいになりました。


漕艇部に入って得たことは、
いち早くNO.ONEになりたかったらニッチな事に注目をする、
という事です。ボートに馴染んでいた青年なんて伝馬船を漕ぐ
漁師の息子ぐらいしかいませんし、伝馬船と競技用の漕艇とは
漕ぎ方が、天と地の差です。
もし野球をしていたら甲子園どころか平安高校なんかに毎年1回戦で
大負けしていたでしょう。
それとボートには、リーグ戦やトーナメント戦などは無く、
予選、準決勝、決勝と戦い続けるのですが、
予選に限り敗者復活戦があります。
誰もが失敗を経験しますが、この素晴らしい敗者復活の思想が、
今でも体の奥まで染み付いています。

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