2010年09月02日

猛暑の中での出張

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毎年8月の下旬に日本へ行っていますが、今年ほど観測史上新記録の猛暑の日々が続いたのには体が驚いていました。

ドバイにも事務所があるので度々出張しますが、事務所と会社訪問の往復は車での移動で、道路を歩くことはないので気温40度以上でも耐えられます。
ロシアの冬も同様で、どこへ行くにも車移動。施設内は暖房が効いているので、夜に外で歩くことがなければ、それほど寒いと感じることはありません。
北京の冬と上海の冬を比較したら、上海の方がビル内に暖房施設が少ないため寒く感じます。

日本に行く前の7月中旬にパリ、ロンドン、デュッセルドルフ、アムステルダムと一廻りして来ました。パリ(カフェ等ではエアコンのないところが多い)では気温36度、ロンドンでも35度と記録的な猛暑を体験しましたが、東京の暑さに比較すればオチャノコサイサイ!

8月23日に銀行で諸手続をしなくてはいけなかったので、宿泊ホテル先の近くの大手銀行に炎天下の中、歩いて行ったところ、その支店では外為取引ができないと言われました。時間がなかったのでJRに乗り(階段の上り下りがきつい……)、他の支店まで行きました。

その時点で頭から湯気が上がる感じで、全身汗まみれで担当窓口に行くと、いろいろな規制を言い出してきて、この支店でも取り扱えないので、本店まで行くように言われました。
すでに頭から湯気が出ている所へ、たらい廻しの対応をされて、頭から出る湯気が沸点を超えて蒸気に変わり、蒸気機関車の汽笛状態になりました。
「俺の金を俺がどこへ移動しようが俺の勝手や!」と言いましたが、規則は規則の一点張り。

そこで作戦を変更し、窓口のカウンターに身を投げ出して、「あの支店、この支店とたらい廻しにされたので熱中症になったみたいや~、水を……水を……」と叫びました。
出てきた麦茶を3杯飲み干し、「このまま本店に行ったら途中で倒れる! 明日の朝刊に『大手銀行の支店幹部が顧客をたらい廻し 熱中症で病院に搬送』というタイトルで記事が出るな~、ウ~ン」と独り言。

今度は冷水が出てきて、行員は「すぐ手続させていただきます」と言い、冷や汗をかきながら直ちに事務処理をしてくれました。
おかげで無事手続が完了。帰り際にはティシュと団扇をもらいました。

猛暑の中での10日間の日本滞在でしたが、いつもなら滞在中に2~3キロは体重が増えるるのに、この暑さのおかげで食欲が減退して、反対に2キロも体重が減りました。
夢の腹筋6パックもそんなに遠くはないと1人で悦に入っています。

どんな環境でもそれに文句を言わず、反対に良いことを発見するように努めれば、暑さも忘れてすがすがしい人生が過ごせますよ!

2010年07月22日

新事業

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今年も既に半年が過ぎ去り、後5カ月とちょっとで正月を迎えますが、今年の初めに立てた年間計画は、ほぼ順調に進んでおり、当初の計画を70%程度達成した感じです。

ブログでは書きませんでしたが、新しいサービスモデルを日本に提案し、その案が取り入れられて今月からスタートするようにこぎつけられたことには、今までにない喜びを感じています。
さらにそのサ-ビス案の延長で、今度は日本のファッション、アパレル商品をアジアで展開する計画も生まれました。

世界的に異常気象現象が現れていますが、氷河時代が来ようが、灼熱が続いて地球の大半が水没しようが、俺は何処かで生き延び、何処かでビジネスができることに確信を持っています。

年齢を重ねれば重ねるほど、アイディアは研ぎ澄まされるようになり、さらに今までの経験を生かして無駄なこともしなくなったことで、計画から達成までのスピードが早まっている感じを受けています。
まだまだ新しいこと、嬉しいこと、楽しいことを見つけて達成していくぞ!

2010年06月17日

母に送った誕生日記念カード

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母の癌手術も無事終わり、来週には元気よく退院できる様になりました。

ドクター曰く「今まで数多くの手術をしてきたが、手術室に入る前の患者で俺の母親ほど穏やかな表情している患者に会ったことがないとのこと」。普通なら恐怖や心配で何も言えない患者がほとんどなのに、手術をする前にドクターと看護婦さんたちに「よろしくお願いします」と笑顔で言ったそうです。

お陰で手術でも体が膠着することもなく、出血も少なく、予想のほか順調にでき、明るく楽しく(?)手術が完了。
手術後も毎日毎日多くの人たちがお見舞いに来て、他の患者さんたちに羨ましがれるほど。
リハビリでも笑顔を絶やすことなく、男性患者が大声を出したり、看護婦さんに無理難題を言うのをたしなめたりしているそうで、病室の雰囲気が変わったとまで言われました。

母は、歴代の首相や母が好きな落語家の桂文珍と俺が一緒に撮影した写真などを家に飾ったりしていますが、先日母の部屋から俺が30年前に送った誕生日記念のカードを見つけました。
それは、SINGAPOREで会社を設立し、一国一城の主となった証として、「社長」と記載された会社の名刺の裏に誕生日のメッセージを書いた物です。変色していましたが、とても大切に保管してありました。
俺の夢の実現のスタートを祝いながら、無事健康で過ごせるように母が日本から祈っていたことがよく分かり、涙が止まりませんでした。

2010年06月09日

偉大で尊敬すべき母

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母が本当に偉大であると思ったことは、他にも沢山あります。

俺の人生の節目節目で、母親の言葉が俺の背中をドンと何時も押してきました。

俺が工業高校を卒業し、日本を代表する大企業の日立製作所に就職した時、親父は近所の人達や親戚に大いに自慢していました。
でも俺は3年後に大企業の学歴社会構造に嫌気がさし 日本でのサラリーマン生活をやめUSAに留学しようと思いました。

資金など色々と悩み続けていた時、母親に「この頃何を悩んでいるの」と聞かれ、何故悩んでいることが分かったのか?と驚きながら、日立製作所を退職し、京都、日本を離れてUSAに行きたいと思っている事実を言うと、てっきり大反対すると思うっていたが、「お前はまだまだ若いから冒険をしなさい!頑張屋のお前なら、海外でも何処でも生活できるはずや! 日本男児なら海外で飛躍しろ! 応援する! お父さんには今言ったら絶対反対するから、日本を離れる2週間前くらいに言ったほうがいい」とまで言ってくれました。

その言葉で悩みが吹っ切れ、上司に退社届けを提出できました。

USAに着いてからも毎週毎週、母から応援の手紙が届いていたので なんら誘惑にも負けずに生活できました。

VISAの問題で USAから夢の凱旋帰国が達成できずに帰国し、再度他の国で挑戦しようとSINGAPORE行き決めた時も、親父は「お前が渡航するのはまだ早い。無理と言ったやろ! 京都でこれからも生活して地道に生きろ」と言いました。

でも母親は、1回ぐらいの失敗でくよくよする息子とは思っていないので、どんな事があってもSINGAPOREで夢の現をしなさいと言ってくれました。
そしてSINGAPOREに来て、妻との結婚を決心した時に両親をSINGAPOREに呼びましたが、既にその時、母親は何かあったと確信していました。

昔のPAYA LEBAR飛行場に、妻と一緒に両親を迎えに行きました。
到着後、初のご対面となった時、親父は妊娠腹のマレー人女性を見て、驚きで目を丸くして一言も発せず立ち尽くしていましたが、母親だけはすぐに駆け寄り、妻のお腹をさすり「おめでとう、おめでとう!」と祝いの言葉を掛け続けてくれました。

GERAT, ADMIRABLEな母親です。

2010年06月02日

いつも笑顔を絶やさなかった母

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俺の84歳になる母親は、昔ながらの京都の衣笠(金閣寺の近く)に、森家(親父は養子)の長女として生まれ、当時としては良家の娘しか行かなかった高等女学校を卒業しました。
俺の祖父は、写真でしか見ていませんが、髭を蓄え芸術家気取りで沢山の絵を書いて(俺は幼い時に箪笥から引き出して見ていました)いても何不自由なく生活していました。

家には「おなごしさん」という、今でいうメイドが住み込んでおり、母親の趣味は料理とクラシック音楽で、正真正銘の良家の長女として育てられましたが、18歳になる前に両親が結核で一度に亡くなり、2人の妹と突然社会で独り立ちしなければならなくなりました。

不動産や資産は沢山あったのですが、未成年のため、親戚・縁者達が、長女の俺の母親に相続させず、親戚が資産管理してしまいました。
その結果、母が成人した時には財産が全て食いつぶされて無くなっていました。
そうとは知らない俺の親父は、森家に婿入り養子しました。

俺が幼い時、親父は大酒の飲んでは、森家に財産がたんまりあると思い、自分の姓を捨てて婿入り養子になったのに……と、いつも森家に騙されたとぼやいていました。
母親が不遇な運命を背負い生きて行かねばならない人生が、この時から始まりました。

それでも愚痴を言わずに慎ましやかに生活していましたが、俺が小学校4年生の時、母親は重い腎臓病を患い、片方の腎臓を摘出する大手術をして一命と取り留めました。
入院生活が4カ月以上も続き 俺の2人の姉は中学校2年生と小学校6年生で炊事、洗濯を母親代わりに行い、俺は幼稚園児の妹の世話をしていました。
そんな時は不幸が不幸を呼ぶもので、親父も仕事を失い、高い手術費・入院費負担に育ち盛りの子どもたち……。とうとう森家は、どん底の生活を強いられました。

子どもの給食代なども支払うことができず やむをえず父親は生活保護を申請して何とか生活ができましたが、学校では「給食のただ食い」(2人分の給食! 幼稚園に通う妹のためにパン等を持って帰っていました)などと言われて惨めな思いを沢山しました。
学校遠足があった時は、数個のおにぎりだけの弁当。親父の強い握力で作ったおにぎりは、喉に詰まり食べられなかった記憶が、今でも残っています。

少しでも家計を助けたいのと同時に、自分の小使いが欲しい、好きな物を食べたい、買いたいと思い、俺が新聞配達のアルバイトをしたのはこの頃からです。

幼い子どもたちを家庭に残し、母親としての務めもできず、困難な暮らしをしながら、闘病生活していた時の母親の心境は、幼い時には解りませんでしたが、自分で子どもを持った時に初めて理解でき、困難なことに立ち向かっていた母親を心から尊敬しました。

母親は大病を患いながらも、いつも笑顔を絶やしませんでした。台所や物干し台からクラシック音楽を口ずさむ母親の姿は、脳裏から離れることはありません。

2010年05月31日

ご無沙汰しておりました

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長らくブログを更新できなくて、お叱りのメールや「事故や体調不良ですか?」との質問までいただきました。
 更新をしていなかったのは、更新する意欲が全く無くなってしまったからです。
 今まで経験した事の無い、一種の欝状態が1カ月間以上も続きました。

 原因は、つい最近までピンピンと元気に一人暮らしをしていた84歳になる母親の病気です。
 4月始めに体が浮腫(むく)み、足が腫れた状態が続いて、「胸が痛い」と言うので、近所に住む妹が病院まで連れて行きました。心臓に不整脈が出ており、即ペースーメーカーを付けるようにと医者に薦められ、直ちに埋め込み手術を行いました。

 母親は、37年前に腎臓結核で片方の腎臓を摘出手術(もう少し手術が遅れていたら死んでいました)していますが、それ以来、健康で病気もせずに元気に暮らしていましたので、晴天の霹靂状態でした。
 
 定期健康診断も特にしていなかったようなので、この際に全身の健康診断検査をするように、姉と妹に指示を出したところ、3日後に姉が涙声で電話を掛けてきました。

 涙声を聞く前に、電話を受信した時から既に不吉な予感がしました。
 「大腸に大きなポリープが数カ所発見された」というのが精一杯の姉でした。

 今年2月に京都の実家で会った時、元気だった母親は、俺に酒の飲み過ぎないように、ストレスをためないように、といつものように注意していましたが、自分の体調変化には心配を掛けないように元気な振りをしていただけだったのか?

 姉との無言の会話が続きましたが、さらに精密検査をしてもううように指示することしかできませんでした。

 ペースーメーカーを埋め込む手術をした後、すぐに癌の疑いがあるから精密検査をするということは、母親の体に大きな負担を掛けることになるので 姉と妹は反対し もし精密検査を受けさせるなら、そのことを承諾させるのは、長男の俺の役目だと言われました。

 過去57年間、何度も深い谷底状態に落ち込む時はあっても 必ず這い上がって来た俺が、食欲もなく、ほとんどの欲もなくなり、欝状態を初めて経験しました。

 SINGAPOREに生活して33年、米国との生活も入れると35年間も京都、母親から離れて、俺の欲望の実現のため、親不孝して来たと思うと何も考えられなくなりました。

(続く)

2010年04月15日

プチプチが愛され50年!

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putiputi.gif引越会社が、梱包資材として利用するプチプチ。通称バブルラップ、エアークッションは、50年前に米国で発明、開発された気泡緩衝材です。
軽くてかさばらず、荷物が透けて見える為、紙やコルゲート紙に変わって、色々な方面で使われ流行しました。
当初この資材は大変高価なので コンピューター等の輸送に使われていましたが、実験の為、俺の国内引越に使い直接家具等に巻いて輸送したところ、時間の経過により家具にプチプチ模様が付いてしまいました。
これ以降使用のマニュアルを作りましたが、競合他社は、そのまま家具に巻きつけ日本まで輸送した為、大きなクレームが発生したと聞いていました。
このプチプチ資材は、腹が立った時やストレスが溜まった時に指先で気泡をプチプチと潰していると 昔飼い猫の蚤とりをしてるような気分になりリラックス出来ました。
特に大きな気泡をつぶす時は快楽倍増で 、一番頭に来た時は、シートを雑巾の様に絞りパチパチと連続して音を発てていました。
CROWN LINEも今年で創立31年目に突入しましたが、プチプチのお陰で、び割れ、破損等の輸送事故が大幅に減少しただけでなく、俺のストレス緩衝、緩和材にも成ったので、これからもずっ~と愛するプチプチです。

2010年04月09日

たちされ長老

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俺のブログに反応したのか? 自民党の長老平沼、与謝野、園田議員たちは、新党「たちあがれ日本」を設立しましたが、今更立ち上がれ言っても国民は別として本人たちは、杖がないと立ち上がられない年齢70代の高齢政治家達。
歌舞伎役者や茶道、華道の家元と同じ様な二世、三世の世襲政治家達も溢れるぐらい存在していますが、自民党の河野太郎氏は、SINGAPOREにサラリーマンとして駐在していましたので 当地で会う機会も多く有り 海外引越も受注しました。
彼のような海外(特にSINGAPORE)に勤務、留学した経験のある人なら今の日本を変えられる気はします。
自民党総裁選挙にもあの若さ(SINGAPOREの首相と比べれば、そんなに若くない)で自ら立候補し、谷垣氏に残念ながら大敗しましたが、当地に居た経験上から立候補したと思います。
「たちあがれ日本」と叫ぶ政治家たちに「たちされ長老」と海外から叫びたい。

2010年03月16日

仮想選挙事務所

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鳩山政権が発足して 3月16日で半年になります。当初支持率は80%近くあったのが、今では半分以下の37%程度まで下落しています。
更に弟の邦夫氏が自民党を離党し、新党を結成すると宣言しました。野(や)党、与(よ)党と対決せずに、や行になぞらえ、争わず(や)と(よ)の間の癒(ゆ)党をぜひ設立して欲しいと思いました。
日立製作所の勤務時代には労働組合に熱を入れていたので その頃から政治に興味を持っていました。そのため30年も前から俺は、海外党、和僑党を結党すると公言しています。
そんな事を酒を飲んだ時に常に社員に言っていたので(社員は大法螺と思っていますが……)、57歳の誕生日祝いに、社内で粋でびっくりする面白い事をしてもらいました。
会社の会議室を、「海外党を創立し総選挙に当選した仮想選挙事務所」として衣替えし、夢を実現させてくれました。
選挙に付き物のポスターだけでなく、襷、達磨、バラの花、くす玉、日本酒と一揃え整っていました。


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茶番劇的な時間でしたが、日本の政治は、ますま混迷するばかりで、 SINGAPOREに住んでいる俺にとっては、経済も政治も小国なるもSINGAPORを見習えと言いたいところです。
経済で世界ナンバー2になった大国中国の指導者が、目指すのは、間違いなくSINGAPOREの政治体制です。

2010年02月18日

57回目の誕生日

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2月13日で 57歳の誕生日を迎えました。
誕生日の翌日は、バレンタインデーで 毎年忙しくしていますが、
今年は中華正月と重なり更にアポ調整が大変です。
今年は、今までに貰った事がないマジヤバ超超面白いチョコレートを山ほど戴き感激に慕っています。
関西出身の俺にとってはこれらのチョコは、心と口を溶かすどころか頭もメロメロにさせてしまい トロトロ状態です。
パッケージは、まるで本物そっくりでパクリもいいところですが、なんとも言えない関西風味満載のユーモアがパッケージの裏表まで 洪水状態的に溢れています。
コピーの一部を紹介すると
・君といつまでもお熱チョコ! 効能は、チョコをおでこに貼ってから、チョコを食べると2人の間にほかほかするかも?
・恋の疲れに、これ一粒 愛のビタミン主剤 チョコI♥L 心に働く活性型ラブビタミンが恋の細胞を活発にしていき、愛のリズムを整える効果があります。
・恋源 コイゲン 恋愛総合補助甘味菓子 恋してまんねん
・完熟女のイヤシライスの素  人生のひかりをたっぷりあびた完熟女のおいしさ
・ガセネタ10 パパラッチ推進薬 1回1ネタ 10万円?有名女優00電撃離婚。。。。。
これ以外にボインカレー アゲX2度、ポット!サセルバン、いちばんキになつとう 超愛情3パック、細マッチョイケ麺 元祖男前 、男前一筋 肉食系イケ麺。。。。。。
もう食べるの勿体無く、買い物カゴに入れたまま事務所に飾っています。
本当にこのチョコ プレゼントには、やられました。