2010年、3つの目標
| さて今年2010年の目標ですが、3項目あります。
まず1項目は、昨年10月に香港でライセンス契約出版した講談社BC発刊の『ベストカー』の英語版とタイ語版をSINGAPOREとバンコクで出版する事です。 2項目は日本の伝統であるおもてなしのサービスと古来からある商品とのコラボです。 そして3項目目は、今まで日本では無かった、成り立たなかったサービスの確立です。 |
| さて今年2010年の目標ですが、3項目あります。
まず1項目は、昨年10月に香港でライセンス契約出版した講談社BC発刊の『ベストカー』の英語版とタイ語版をSINGAPOREとバンコクで出版する事です。 2項目は日本の伝統であるおもてなしのサービスと古来からある商品とのコラボです。 そして3項目目は、今まで日本では無かった、成り立たなかったサービスの確立です。 |
新年明けましておめでとうございます。
2010年は、CROWN LINE GROUPの創立30年を迎えます。21歳で USAに渡航した時と同じようにスーツケース1個だけで SINGAPOREのPAYA LEBAR AIRPORTに足を付けたのは、今から33年前です。 米国系の運送会社に就職し 月給はUS$500で住宅手当もなく オーストラリア人に家に居候(掃除と朝食を作る条件)し 車もなくホンダのカブで スコールにも負けず、バスやトラックの廃棄ガスで ワイシャツが1日で真っ黒くなりながら毎日、毎日、来る日も来る日も 最低6件の飛び込み営業廻りをしていました。 それから1年で 営業成果を認められ大きな家に住め、交通手段もバイクから車に変わり、名刺の肩書きも、勤務して3年目には平社員から日本人地域統括責任者兼SINGAPORE副支店長まで登り積めました。 貯金も出来る様になり、2年に1回、日本に会社負担でホームリーブ帰国出来る様にも成りました。 でも仕事をやればやるほど、業績が上がれば上がるほど、米国式の経営と日本式の経営の狭間、葛藤に悩まされる日々が続きました。 金融のリーマンショックではありませんが、お金だけが全てではない、本当に日本人のお客様から愛される様に成りたい、海外生活で困っておれれるあらゆる事をお手伝いしたい、海外勤務をもっと楽しんでもらいたい、喜んで貰いたいと思い、日本人による、日本人の為の、日本の引越会社、CROWN LINE PTE.LTD.を設立したのは、丁度俺が26歳から27歳になる1980年の3月でした。 貧しい家ながら姉妹達と和気藹々の楽しく 若い時代を過ごしましたが、30歳未満で念願の1国1城の主に成り、正しく豊臣秀吉と重ね合わせていました。 古代の人間に埋め込まれたDNAの体内時計は、歳と取るにつれて 時間が早まるように設定されていると思うので このSINGAPOREでの生活した33年、会社設立した30年間は、光陰矢の如しとしか言えません。
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2009年もあとわずかに成りましたが、皆は、新年に決めた目標は達成しましたか?100%達成したと言う人は、絶対に目標が低すぎたと思います。 80%なら最高でしょうが、ドバイショックも遭ったので難しいかも知れませんね! 俺の今年の目標達成率、評価は、50%前後です。 目標の半分しか達成していないので 全く面白くなく反省することが多いので 嫌気がします。 軽い鬱病になるくらい(一瞬でしたが……)落ち込んでいましたが、ある素晴らしい言葉によって 顎が上がり、シャキット胸を張り、CROWN LINEの創業30年を 迎える2010年に向かって、何が何でも歯を食いしばり、まだ活用していない潜在能力を呼び覚まし、雨が降ろうが雪が降ろうが、風が逆風であろうが、台風、ハリケーンが来ようが、地震が来ようが、雷に打たれようが、天災、人災にみまわれようが、力のある限り全力疾走して行こうと強く決心しました。 その素晴らしい言葉の発言者は、エベレスト登頂に成功したエドモンド・ヒラリー卿です。 実は、ヒラリー卿は、エベレスト登頂に、一度失敗しています。 その時に言った言葉が、『エベレストはこれ以上大きく、高くならないが 私は、必ずもっと成長出来る』。 俺は、必ず勝つし目標を達成すると決意して、そして勝った姿、目標を達成した姿をイメージし続け忍耐強く考え抜き行動し 諦めずにやり抜くことを 指針にしています。 もし誰か、他社に今、負けていても 何時か必ず追いぬける筈と創業した30年前に強く思いました。 創業した時の年齢は、26歳と11カ月だったので 最後の最後、負けているその誰か、経営者は、俺よりも早く死ぬ筈だ。 必ず勝てると言い、思い続けて来た30年です。 |
我ながら 俺は好奇心の巨大氷山級の塊だと思っています。今回の写真は、上海で経験した眼の洗浄です。 先月に上海に出張した時は大変寒く、体が膠着状態だったので体と足のマッサージをうけるために出かけました。 そのお店で見つけたメニューの中に 30分、料金60元の洗眼鏡というメニューがあったので大変興味が湧き、どんなことをするのか色々と聞きました。 マッサージしてくれる人は男性で、この洗眼以外に耳掃除、耳のマッサージ、踵の角質取りを専門にしている人でした。 聞いてみると人間の眼は、常に大気(上海は大気汚染がすごく、長く滞在していると眼がかゆくなる)にさらされてどうしても汚れる。 汚れた眼を洗浄するのは目薬などしかないが、それだけでは長期間に貯まった埃や塵は取れないので定期的にこの洗眼鏡のコースで 長年貯まった塵、埃などを 強制に排泄すれば、眼は生き生きとし眼の切れ目が大きくなると説明されました。 一緒に同行した上海の女性スタッフもそれを聞いて 私もしたいと言いましたが、洗浄するための器具を見て 急にビビリだし、今回は辞退しますと尻込みしてしまいました。 俺は、好奇心が人一倍強いので 面白いと即思い、施術してもらいました。 最初に目薬をさされ、つぎに耳垢掃除に使うような写真の器具で 鼻の両サイドの目頭に器具を入れてぐりぐりと掻き廻すと膿みたいなものがドロドロと出ました。 出てと言っても俺には見えなにので スタッフにどんなことをされているのか細かく実況せよと言い伝えたので、上記はスタッフの表現です。 両側の目の隅をグリグリした後は、目の表面を器具でなぞられ、その後目を全体をマッサージしてくれました。
終わった後は大変気持ちよく、眼の両側が大きく開いた感じでなんとなく眼が大きくなった様な気がしました。 弊社が発行する、無料誌のJ+PLUSでも色々な体験を挑戦していますが、中国の健康に対する考え方は、不老長者を願う皇帝から来ていることがよく解ります。 これからも 何事に対しても貪欲に挑戦して行くぞ! |
雷の遭遇から命拾いし 色々と考えました。結論は、直感を如何に大切にするかです。頭いくら考えても 宇宙、大自然とは闘えません。 昨今、頭脳学者の茂木健一氏(TVの出演料や著書の印税等、3億円を全く申告せず東京国税局より1億数千万円追徴された。この脳科学者の大脳の中には税金を納めると言うワードがないのか??)や、苫米地英人氏が、頭脳に関して数々の本を出版しており そのほとんどを読みましたが、直感は頭脳から出るものではなく、体全体で出るもの。特に腹から出るものと思いました。 腹の内に頭にある頭脳みたいな 腹脳があると思います。人間の進化から考えても アメーバーやミミズは頭脳が無くても 何かを食べて排泄し 雄であり雌でもあり、合体?させ、細胞を分裂させ、成長して行くので 腹の中に脳がある筈です。 古代の人間も 生き伸びるために まず頭脳より食べることが優先された筈で、そこからより進化して 狩りの技術を伸ばすため頭脳が発達していったと思います。 その証拠に今も脈々と言葉で、腹がいかに重要であるか表現されています。腹をいかに大切にすべきか、昔の人は知っていたのでしょう。 ●「腹」がつく表現で一般的なもの 腹持ち(が良い/悪い)、腹がたつ、腹に収める腹を据える/据えかねる, 腹黒い、腹を決める、腹をくくる、腹を探る、腹芸、腹を切る、(私)腹を肥やす、腹を割って(話す)、腹を痛める、抱腹絶倒、腹太鼓 ●ことわざでよく知られているものとしては…… 腹が減っては戦ができぬ、 腹立てるより義理立てよ、腹に一物(心中ひそかに、何か企みを抱いていること) ,腹の皮が張れば目の皮が弛む、腹八分に医者いらず、 背に腹は変えられぬ、茶腹も一時(ちゃばらもいっとき)、痛くもない腹を探られる、 空(す)き腹にまずいものなし 頭が痛くなると同じようにお腹も痛くなる、頭を使えば、腹も使う、これからは、頭脳だけでなく腹脳も鍛えれば鬼に金棒です。 でもお腹を出して寝ていると雷が、お臍を取りに来るのでご注意を! 本当に雷は怖い! |
最近、なんとも言えない恐ろしい事に遭遇しましたが、強運の星の下に生まれたお陰で無事ブログをアップしています。それは、10月25日、日曜日の10時15分頃にチャンギ飛行場にあるタナメラ・カントリークラブのゴルフ場での出来事でした。 常連の仲間達とゴルフをしている時に、何の前触れもなく突然北の方向から黒い雲が現れ2回ほど雷が鳴りました。 雷警報が、全く無く驚いている間に、更にもう1回俺の近くで雷が鳴ったと思った瞬間、耳を突くような大きな音と共にピカドンと雷が落ちました。 一瞬何が起きたか解りませんでしたが、そばで落雷したのだろうと思ったら60メートル程度離れた17番のロングホールで 地元の人が奇声を上げました。 てっきり誰かがイーグルでも出したのかな思いましたが、続けて「ヘロプ、ヘロプ」と言いながら両手を廻したので 駆けつけてみるとプレーヤ一の人が、グリーンのエッジに倒れこんでいました。 傍には、帽子の半分が、千切れ千切れに飛んでいて、地面にモグラが居たような隆起し焦げくさい臭いが立ち込めていました。 雷が帽子の留め金に落ちた事が解りましたが、俺はどうすれば良いのか全く解らなく呆然と立っているだけでした。 意識もなく、呼吸もしていなく、心臓も停止した状態なので、同じ組でゴルフしていた二人が、心臓マッサージを開始しましたが、意識不明のままで救急車を待つしか方法はありませんでした。 俺は、とりあえず散らばったゴルフクラブやカートを整理し、他の人を励ます以外何も出来ませんでした。 そうこうする内に救急車が来て、落雷にあった人を乗せましたが、サイレンを鳴らさずそんなに急がず病院に向かいました。 後日の新聞記事で病院に到着する時に心臓の鼓動を動き始めたが、意識不明のまま緊急治療室で治療を受けていると判明しました。 いち早く回復されることを祈る毎日ですが、間一髪で俺は危険から逃れられました。奇跡の背景には、こんな事がありました。 1)毎週日曜日のスタートする時間は、08:19AMで この日は、既に予約済みでした。 落雷に遭遇された人は、本来俺たちがプレーする08:19にスタートしました。 2)その日の朝、常時付けているアクセサリー(18金のネックレスとブレスレット)を何かする気がしなくて外して行きました。皆からは、今日は何時もの派手さがないね~とからかわれました。 3)15番ホールで 俺は、ドライバーショットを池に入れ、打ち直しをバンカーに入れ、次のショットは、更にグリーンの奥のバンカーに入れ、今度は、グリーンオーバーのショットと10打も打ってしまいました。 同じ組でプレーした友人たちは、パーやボギーで上がり、俺は、ふて腐れて皆の後を歩いて 最後列にいました。それが、落雷場所に一番近くに成ってしまいました。 4)その日はゴルフは中止して、テラスで皆と生還酒盛りで体を清めていましたが、翌日、宝石箱に仕舞っていたネックレスをしようとしたら、何時も虎の牙と虎の爪の間に生まれが巳年なのでお守りとして付けている、金製の蛇のペンダントがなくなっていました。蛇が身代わりに成ってくれたとしか思えません。 今まで 幾多の危険な状態になり命からがら生還してきましたが、この日程、誰かが、俺を生かしてくれている、見守ってくれていると思った日はありません。 雷の巨大なエネルギーより 俺の生命のエネルギーが、勝った日でした。 |
2009年10月14日に、天皇皇后両陛下と会うことができ(50、60センチの息が掛かるぐらいの距離)、更に皇后陛下から労いのお言葉まで戴きました。和服をめされた皇后陛下の高貴な美しさとロイヤルファミリーの持つ威厳、言葉で表現できない後光を射すようなオーラーを体の全体に感じ鳥肌が立ちました。 翌日の15日には、外務省の飯倉公館で岡田新外務大臣と挨拶交換が出来、ツーショット写真(天皇皇后両陛下にお会いする時は写真撮影は厳禁)も取れました。 こんな機会に恵まれたのは、俺が海外日系新聞放送協会の副会長を3期6年も務めていて、今期も継続しているお陰かも知れません。 この協会は、財団法人海外日系人協会の下部組織で 世界中の邦人新聞、放送に携わる者同士が、毎年に日本か海外で大会を開催し、今年で36回目を迎えています。同時に海外日系人大会も開催されていて本年は50回目を迎えました。 海外では、300万人の日系人が世界で暮らしていますが、海外日系社会と日本の結び付を高め日本人としての誇りを持ち世界と日本の架け橋となる民間大使の役目もあります。 100年も前にブラジル等南米、北米に移民した移住者、その子孫、二世、三世、四世まで 海外から20カ国、200名にも上る方々が参加されました。 第二次世界大戦で 廃墟となった日本を救う為、基金をつのり、食料や衣服などを送った海外の日系人の方々に感謝する為に 名称を国連加盟、海外日系人親睦会大会として 開催されたのが、1957年(昭和32年)でした。 天皇陛下は、皇太子時代の1969年の第10回大会にご臨席になったのを始め、1974年、1979年にもご臨席になり、1984年には皇太子妃美智子殿下にもご臨席いただき、1999年は、天皇皇后両陛下としてご臨席になりました。 日系社会と日本とのネットワークと交流の促進、中南米の日本語教育の充実、日系人のアイデンティティの確立、在日就労者問題、在外選挙の拡大と充実など掲げていて、俺は海外選挙区の創設を唱え皆と活動しています。 俺も10年前から参加していますが、荒野を開拓し、病魔との闘い、異国の良民となり、子孫に意思を繋いできたご苦労された先人、先輩からの会話を通じ、大和魂を増殖させていますが、今回は、なんとも言えない感激に慕っています。 |
未だに持ち続けている、33年も前に買った服とは、京都の大丸で購入したアーノルドパマーの傘のマーク、当時は、熊などの動物を始めワンポイントマーク付きが大流行したシャツです。これを着て日本から旅立ち、PAYA LEBARの飛行場(CHANGIではなく昔の飛行場)に到着したのは、つい最近の様な気がします。 毎年、衣服の整理をして サイズが合わなくなった物や要らない物を処分していますが、どうしてもこのシャツだけは、処分できずワードローブの端に今でも掛かっています。 流石に33年も前に買ったので 胸、腹周りのボタンが留められないシャツです。 ビジネスが上手く行かなかった時、解決策が浮かばない時、悩み苦しんだ時にこの半袖シャツを奥から引っ張りだして 眺めているだけで気持ちの整理が出来ます。 無一文、裸同然で1枚のシャツとスーツケース1つだけで降りたSINGAPORE、壮大な夢を抱きながら失敗し挫折し、挫けて、責任を放棄し逃げ出そうと何回も思いながらも、踏みとどまることができたのは、又、無一文でこのシャツを着て、日本に帰ればいい、失う物は何も無いと、思うことができたからです。 大和魂、プライドを捨ててまでも海外で踏みとどまりたくない、捨て身の人生、崖っぷちの生活を経験してきたからこそ、心底から思える事です。
更に夢の実現、必ず夢を叶えると思う力、想念が、誰よりも人一倍大きかったからだと思います。叶えるという字は、漢字のままで、口で十回以上唱える。夢を皆の前で10回以上唱え続ける事が夢を叶えるのです。 人からほら吹き、幻想家と言われようが、恥を恥とも思わず信念を貫く事があらゆる事柄を達成する為の条件です。 公言して、10回で叶なわなければ、100回、千回、1万回、10万回と、強い意思を持って100万回、1000万回唱えれば、必ず叶います。 叶わない物は、この世にないと思い願い続ける事が、成功の秘訣です。 |
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食欲の秋に寄せてという訳ではないですが、大阪には‘食い倒れ’という言葉があります。
この言葉は、日本中で有名ですが、関西には、食い倒れ以外にも各地に特色ある言い回しがあります。神戸は、‘履き倒れ’。神戸に多くの靴屋さんが存在していたの神戸は、坂の町なので他の都市と比較して靴やヒールーがちびりやすく(関西弁) 靴を多く買ってしまうので 神戸の履き倒れと言われました。
俺の生まれた京都は、‘着倒れ’と言われます。これは呉服問屋が多くあるだけでなく、遷都以来の着物文化社会で、京友禅、西陣織など着物全てが京都にあるからです。
高校時代、漕艇部のキャプテンを1年生からしていましたが遠征費用など工面する為に、OBが経営する染工会社(友禅などの染物を水洗いする会社)に、冬休みはバイトで働いてました。その時に気がついたのは、羽織などの表生地より裏生地のデザインの優れた物が沢山あることです。奇抜なデザインから奇想的な物まで 日本の芸術にただただ驚くばかりで 男のファッションは、チライズム、色気は、裏地にあると確信しました。
会社を経営する様になり、仕事着もジーンズから ネクタイにスーツ姿に変わりました。それに伴いオーダーメイドのスーツも毎年沢山作りましたが、どうしても裏地に懲りたいため、とうとうエルメスの大判スカーフを2枚買い、ポケットの裏地、襟の裏地までエルメスで仕立てしました。
銀座や赤坂に行き、部屋の温度は心地よいのに、この部屋は暑いと言い、さーと上着を脱ぐのはさながら‘遠山の金さん’が、肩の桜吹雪を見せると同じ感覚で、脱いでいました。
でも ドライクリーニングをする時に、ウールとシルクの収縮差と原色の多いエルメスのスカーフと背広の色との関係で同じ揮発剤が使えず、一度裏地を剥がしてからしか出来ないため、何処もドライクリーニングをしてくれませんでした。
背広の生地代、仕立て代より、エルメスのスカーフ2枚分の方が高くその時作った4着のスーツは、ゴミ箱に消えました。
でも 33年も前に買った物を今なお、保管しているシャツがあります。
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この数値は、ジーンズの価格で 日本で発売されている最低価格と最高価格です。
俺は小学校5年生から新聞配達をしていましたが、毎日毎日のバイトに出るので普通のズボンでは寒い冬や雨の日などには通用しません。
今から45年もの昔の話ですが、当時、ジーンズは古着屋と言うかアメリカ軍の払い下げ品を売っている店しか販売していませんでした。
店の名前もアメリカ衣料という名前でした。
ジーンズはあくまでも作業着なので 小学校にはジーンズを穿いて行く生徒、先生は皆無でしたが、授業が終わって家に帰れずそのまま新聞配達に行くので 特別に先生が許可してくれました。
その頃から米国の映画何かで ジーンズを穿いている俳優が多くいたため、最初のジーンズブームが始まったと思います。
その後21歳の時にアメリカに渡航してからも、毎日ジーンズを穿いていました。
ジーンズの原点は、その昔ゴールドラッシュのとき、採掘作業員が、毒蛇に嚙まれない為、毒蛇が嫌いなインディコ、藍染の耐久性に優れた安全作業着として作られたことと言われます。それが今では、世界のファッション着になりましたが、俺は、小さい時からジーンズを穿いていたので 人一倍強い思いがあります。
ジーンズは、貧困生活と一緒に闘って来た俺の戦闘着なので 880円のジーンズを穿く気にはなりませんので とうとう1着、17万8500円のジーンズを買いました。
合成藍ではなく、天然の藍(江戸時代から 伝統の正藍染め方式)で手染めし、機械織りではなくこれまた手織り(世界で2台しかない手織り機械で 1本のジーンズを織るのに3日間掛かる)と全て手作りのジーンズです。
この高いジーンズを穿いていると幼い時の事を思い出します。
どんなに苦しい事があっても、耐えられない苦しみがあっても、朝起きてジーンズを穿いて一生懸命、汗を掻いて働いたら そのうち悩み、苦しみは消えていく事を体とジーンズに染込ませて……。
ジーンズのサイズは、勿論30インチです。この高いジーンズを穿けなくなったらまたもやメタボ症状が出た事になるので 毎日トレーニングに励んでいます。
だから17万8500円のジーンズは、良い買い物に成りました。